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2017年10月 facebook

2017年10月1日 15:21

「人間の本能」

幸福に生きるコツは、他人を幸福にする事らしい。
確かに、日常を観察すれば、そういう傾向があるのは明らかだ。こんなものは誰でも分かるし、分かっている。
しかし事実であると分かっているのと、それをストレートに受け入れるのはやはり違うことで、なぜほとんどの人間が受け入れないかと言うと、そこに社会的な道徳の匂いを嗅ぎとってしまうからだ。

この事についてどう考えれば良いか分かったので、ここに書いておきたい。
なぜ人間は自分が他人を幸福にすることで自分も幸福になるのか。それは人間が助け助けられの関係を築く社会的な生物だからだ。
ではなぜ人間という種は助け助けられの関係を築くのか。
考えてみて分かったが、これは戦争や狩りのためで、それ以外では無い。

まず自然界においては深刻な病気や怪我は仲間がいても無駄で、では軽度な病気や怪我の時にどう仲間が活躍するのかを考えると、これは狩りであって木の実集めでは無い。
戦争や狩りにおいて、多勢に無勢で獲物や敵を追い込む時に仲間が役に立つ。
もっと言えば自然全体においても、生物が群れるのは攻撃と防御のためで、それ以外ではない。

道徳や常識に反して、仲間とは武力だ。
だから他人を幸福にして自分が幸福な気分になったとして、道徳なのではというためらいは必要無い。

2017年10月4日 14:06

「精神性と主観」

どうも俺はネガティブな、弁明を目的として文章を書き始める事が多い。

俺は昔、サトラレになりたいなどとほざいていた。
サトラレとは、その題の漫画の中の、自分の考え全てがバレるという症状のようなもので、俺はその漫画自体は読んだことが無いのだけど、そうなればめんどくさいやりとり全てをふっ飛ばして楽になるような気がしていた。あるいはそう思っている、ニュータイプ的世代の自分を演じていた。
それが数年前、精神的未熟さからなのか、ある事故でクラウンチャクラと呼ばれるような身体感覚の部分に失調をきたして以来、SF的不条理さとでも呼べるような、正に自分がその状態であるかのような錯覚の中で生きている。

村上春樹の『東京奇蹟集』のような事が何度も起き、その主観の中で、理性的に考えればこそそんな事は確率的にあり得ないので、それに必死に理由付けようと試みて、それが少し前に書いたシンクロニシティの説明、『世界における数学原理』のようなものだった。物理法則以前に数学原理のようなものがあるはずだという、単純な現状認識でしか無いわけだが。
http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/353418/tachiyomi.html

外国の人間は、宗教をしていない者など動物でしか無いと話す。
精神性の高さとは何だろうか。人間の何をもって精神性が高いとするのか。道教の、春秋戦国時代で負けた人間たちに支持された思想の、平等や相対化を排して考えてみる。
それは人間の生物的特徴である、発汗により長距離移動できる事か、大きな肝臓により色々なものを口にできる事か、頭が良い事か、社会的生物である事か、また芸術のようなものを作れる事か。
おそらくそのどれでも無い。そんなものは外因でしか無いからだ。例えばコンピューターが芸術を作れるようになったとして、人間はそこに精神性を認めないだろう。
人間が自分に精神性を認めるのは、その人間が体験している主観に拠っていて、それ以外は根拠にはなっていない。例えば芸術の表面でなく、それを観た時にその人間の中に起こされる主観、おそらくそれが根拠になっている。

『井の中の蛙大海を知らず』の大海とは何だろうか。どうも俺にはガンダムのクライマックスのララァの『時が見える』みたいな事に思えてならねえ。(どうもカッコのルールを変える必要があるらしい)
俺は思考実験が好きだから、この人間性を踏みにじっていくような現状に、内心では満足している。

精神性の高さとは、差別をしない事、感謝する事、恨まない事、努力する事、成長する事、プラス思考である事だろうか。
俺にはどうも、真面目に考えられた教育カリキュラムに作られたもののように思えてならないのだけど、どうだろうか。
何をもって成長なのか。プラス思考の実際を見て、そのプラスはどこへのプラスなのか。

言語を分析していると、地面が論理的前提のメタファーになっているし、チャクラなどという身体感覚もそれを前提にしている。
宇宙に行ったら開放されるという言説も、それが根拠なんだろう。
最近は自分がそういうものに囚われている気がしたら、ベットやソファーから首だけ出して逆さに世界を眺めることにしていて、それで確かに何かが開放されるような気がするわけだけど、馬鹿みたいな事をしているように思えてならない。

2017年10月7日 11:33

「投票に行かない理由の詳しい説明」

投票に行くという結論も、行かないという結論も、どちらも社会のことを考えた上で、論理的に弾き出される。この二つの違いは、視点の位置にしか無い。

投票に行くという立場は、完全に社会の視点から自分を細胞のように捉え、社会のためになる事をしようとした時に弾き出される。
正義の定義を「社会のためになること」とすれば、こちらこそが純粋な意味での正義という事になる。ルソーなどはこちらだろう。

それに対して投票に行かないという立場は、自分という視点から、社会のためになる事をしようとした時に弾き出される。
社会の事を考えたとしても、自分の視点から演算するならば、投票をしても統計的に誤差だ、だから行かない、という結論になる。

どちらが正しいというよりどちらも正しいわけだけど、スターリン批判以降の政治意識の移り変わりを見る限りでは、事実さえ踏まえればもう後者の立場に立つ人の方が多くなっているのではないかと思う。
マイケル・サンデルも正義は一つでは無く話し合いで決まっていくとしているし、数年前のシールズも自分の視点という事を強調していた。
例えば国連に大統領のようなものを作り、一国の政府のように政治をしたら、多くの者は反発するだろう。

以上の理由から俺は投票には行かないし、社会的にも投票に行かない人たちの方が本質を分かってるんじゃないかと考えている。

2017年10月8日 15:41

「『正々堂々』とは何か」

トラブルに巻き込まれて気づいたのだけど、どうも自分が大事にしている価値のかなり上位に、『正々堂々』みたいなものがあるらしい。
自分が大事にしている価値というのは疑いにくいもので、『正々堂々』とは何かについて考えにくいのだが、まあ考えてみる。

まず正々堂々とは、自然においては成立しない考え方だ。
例えば正々堂々とした狩り・正々堂々としてない狩り、みたいなものは存在しない。
正々堂々とはあくまで社会的なものでしか無い。

次に正々堂々は、何やら対等さに関係する。
例え実際には対等じゃないにしても、正々堂々とという事になると、同じ土俵に乗っているという点では対等の存在という事になってくるんじゃないか。
同じ土俵に乗らずに正々堂々も無いだろう。

ここで、『同じ土俵』を「合意された戦いの場」として、本当に正々堂々がそれに限定されるのかを考える必要がある。
合意が無い場合・戦いでない場合に、正々堂々という基準が存在し得ないのかを考えてみる。

まず、戦いでない場合に、正々堂々は存在し得ないのか。
『戦い』を「目的が競合した状態で、それぞれがその目的を目指すこと」とすると、「目的が競合した状態でなければ正々堂々という基準は存在し得ないのか」また「目的が競合していても、一人しか目指さない状況では正々堂々という基準は存在し得ないのか」が問題になる。

「目的が競合した状態でなければ正々堂々という基準は存在し得ないのか」について考えると、議論という例外がある。
例えば全く競合し得ない、現実の有限性みたいなものが無い数学の、社会的な評価が絡む新しい問題というより古い問題に取り組む時、他者との競争が無いにしても、そこには正々堂々があるんじゃないか。明確に書ける所を書こうとしないような逃げがある場合、それは正々堂々してないんじゃないか。

また「目的が競合していても、一人しか目指さない状況では正々堂々という基準は存在し得ないのか」について考えると、そもそも目指さない事そのものが正々堂々してないという考え方があるんじゃないか。

合意が無い場合に正々堂々という基準が存在し得ないのかについても、合意が無いまま後ろから斬りかかるようなシチュエーションは正々堂々してない。
これについては『同じ土俵に乗らずに正々堂々も無いだろう。』を『同じ土俵に乗らずに正々堂々という基準も無いだろう。』としなかったのが良くなかった。

めんどくさいからもう書かないが、こういう問題点がある以上、何らかを考えなおす必要がある。

2017年10月8日 16:46

「いろいろ 1」

戦後教育の批判ってタブーなわけだけど、まあGHQは戦中の状態から今の状態まで持っていく必要があって、そういう特別な状況のために教育カリキュラムが組まれたわけだから、戦後に考えだしたような世代の意見が正しいわけが無いと思うのよね。
俺としては彼らより、イギリスやフランスにそういう事への姿勢を学んだ方が良いんじゃないかと、まあ思う。
結局直前の文章の自己批判してますよみたいなのも、そういう歪みから来てるのだと思う。

俺としては、直前の文章は、まあ何やら俺への評価が上がりすぎてしまったら困るから、やっている事の地味さをバラしたほうが良いんじゃないかという計算で、まあ書こうとした。
数学とかだと普通の人が1できることを100できるみたいな所があって凄いわけだけど、ジャンルが違うとなると、まあこういう風に、凄さという感じじゃないんじゃないか、と俺は思う。
見ての通りで、感覚としては手芸とか、発掘のおもちゃみたいな感じだ。
ベーシックイングリッシュも日本語論も数学論も、そういう感じだった。

ただそれでもやはり俺は歴史上で一番の哲学者だと自分では思っていて、それはカントとかフッサールとかなどなどの、大哲学者と言われてる奴らが目指していた知の統一理論を作るみたいな事を、結果的に俺ができていると思っているからだ。
彼らとか哲学っていうのはその意味で未完のプロジェクトみたいなものだったわけだけど、まあ俺はこういう過程で考えているしその過程に爆発的な頭の良さは必要無いわけだけど、結果的にできているんだから、やっぱり理論上、俺が歴代一位の哲学者だと思う。

2017年10月8日 17:21

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=378322965913799&id=100012082960377

2017年10月8日 17:24

本当なのに誰も信じてくれない。
それとも奴らは釈迦やキリストの亜種みたいなものなんだろうか。
まあ、そうなのかもしれない、と最近のテキストなどへの観察では思う。
テキストが見る人によってグニャグニャ変わってしまうなら奴らは釈迦やキリストだ。

2017年10月9日 19:43

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=378707862541976&id=100012082960377

2017年10月9日 19:44

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=378707935875302&id=100012082960377

2017年10月9日 19:51

3つの内の一つだけに着目して被害者ぶるのは良くなかったね。

まあタイトルを付ければ文章を書けるのは分かったから俺はもう去る。

最後に言っておくと、ニート歴は国への滞在歴のように測られるべきで、俺は9年目だ。
どちらも今年か前年ぐらいに発見したのだけど、ニートはカーテンをしめるべきではない、かつみそ汁を作るべきだ。
この二つで生活リズムと栄養バランスは何とかなる。
こんな本もある。https://www.amazon.co.jp/dp/4766129547 俺は読んでない。

追記:カーテンは遮光カーテンじゃなくてもダメだった。みそ汁は食感の構成を意識すると発想しやすい。さらばだ。

2017年10月24日 13:58

まあ、自分では他人を批判する分、自分も批判しているから良いんだとか思っていたけど、実際には自分を批判なんかしてないなと、最近気付いた。姿勢としてまず自己肯定から入るわけだけど、しかし、それが問題とも思わん。

日本は「手下の国」だというのが俺の持論で、例えば歴代一万円札のもう片方の聖徳太子は、日登る所の天子と道教的に物申して、天子は一つだけだと道教的に窘められたことで有名だけど、得意技は複数人の手下の発言を同時に聞くことで、政治的な実績は帽子の色で誰が誰の手下かをハッキリさせた事だった。
自民党は国民を手下だと思っているが、その分自分をアメリカの手下だと位置づけてバランスを取っているし、人文学者は偉そうだが、その分自分は欧米の学者を崇めることでバランスを取っている。日本人が他のアジア人を見下すのも、自分たちが先に近代化したからで、フランスがどうこうという言説とセットになっている。片方批判するだけでは不足で、批判するならそのシステム自体を批判する必要がある。

人文知が偉かった時代はもう終わっている。評価というのは目的があって成り立つ。大きな物語つまり共産主義革命という目的が共有されなくなった以上、人文知はもはや評価を操る存在では無いし、人文知自体も評価の対象では無い。構造や感性に着目するのが反政治という意味で政治的だった時期も過ぎた。俺だってそのつもりで自分がどうあるべきかを模索している。
まあ日本人に限らず、人間は女にしろ偉人にしろ何にしろ宝物を見つけたがる傾向がある。俺としてはそれを打ちのめす作業を続けたいと思う。

あと、カーテンは10センチで良いらしい。俺も10センチだけ開けるようにして、3日経った今の所、特に問題がない。

https://ameblo.jp/sawaton/entry-11454403854.html

2017年10月27日 14:13

日本語を説明する理論を作った。それで日本語話者も増えて少子化問題なども解消。これで一体何がいけないっていうんだろうか。
次のエッセイで俺にどうして欲しいか書いてください。
可能な限りでそれをしてあげますから。

エアリプっていうのは誤解を生むので良くないですがね、facebookの誰かにでは無いです、はい。

2017年10月29日 15:52

ちょっとね、エアリプ相手に。
哲学者とか思想家がどう考えたかが議論されたりするけど、あれって俺は占いの一種という気がしている。構造があるだけだからいくらでも、どうとでも読み込める。
学問が盛り上がったのは確か19世紀からで、高度になってきたのはその後半になってから(だったと思う)。
哲学者とか思想家とかなんて相手にするだけ無駄です。

2017年10月30日 13:59

https://twitter.com/otoimi_gogen

こう、「なぜ理解されないんだ!」みたいなマッドサイエンティストみたいなことはもっと複雑な理論で起こるものだと思っていたのだけど、他の人はどこが分からんのだろうな。確かに集合論の説明の部分では曖昧な部分があって、齟齬が発生して責任問題になってくると立場として辛い。

集合を要素として考えることができるかと言ったら、説明にあるようにNOだ。男という集合の要素一つ欠けても男は男だから、集合は要素では説明できない。

問題はその逆で、要素を集合として考えることができるか。集合は要素を無限に含むから、更に要素を集合として考えることができてしまったら無限の中に無限があるみたいな事になって集合論としての意味を成さなくなる、ぐらいの話なのだけど、いや伝わると思っていたので甘えがあった。

ではなぜ数学においては要素と集合が同じなのか。それはおそらく、要素になる数自体が集合、日常的な言葉づかいでは「枠組み」でしか無いからだろう。例えば「6」はいろんなものの6個であり得るという意味で枠組みだ。

あとはもしかしたらCの空間が難しいかもしれん。それぐらいかなあ。

まあ、今読めば「結果」とか何のこっちゃという感じだし、書き直すかなあ。

http://otoimi.net/theory

2017年10月30日 21:21

もう書かないはずだったんだがな。
ハゲるのが嫌だったので喉の違和感が無くなるまで研究をストップするつもりだったが、坊主にして再開する事にした。
もし統合失調症だったら急ぐ必要がある。

追記:そもそも、もうすぐできそうなんだよな。

追記2:あと10日から親戚の家でバイトがある。それまでに完成させたいという。

2017年10月30日 21:59

「ぷよぷよ連鎖の適当分類」

エッシャー分類法I類
http://www.inosendo.com/puyo/rensim/??50054545005454054545054545222222545450054545054545054545

エッシャー分類法L類
http://www.inosendo.com/puyo/rensim/??405405044544455455222222400000054050445445455455

原始階段 http://www.inosendo.com/puyo/rensim/??40005034003534444554222222050400040540445544

原始挟み込み(正直この区分は苦しい) http://www.inosendo.com/puyo/rensim/??50000050000044000045500222222000500005300004450055450222222005000044000455500

縦の挟み込み・縦の階段 http://www.inosendo.com/puyo/rensim/??45550045440056550056440446440445550365440364550554

ぐだぐだ階段(その場での連鎖) http://www.inosendo.com/puyo/rensim/??70000070000050000057000045000645000666000744000

ぐだぐだ挟み込み http://www.inosendo.com/puyo/rensim/??60000065000056000056000045000444000

でもって、セカンドのプラス一列とは、ぐだぐだ連鎖においてはどんどん色制約が強くなっていくのでたまに位置を変える必要がある、という話なのではないか。

※後はぷよぷよにおける評価関数(プログラムみたいに)をどう考えるかが研究対象になり得る。他には、それ以上組めなくなる9段まで埋める事を前提に、2ダブとか本線にならない連鎖を作っても良いんじゃないか(つまりその9段の中に)、というのが最近考えている事だ。まだ試してないので分からん。

※それに関係して、ぷよぷよは横7列縦15段、ネクスト3つホールドあり、不快にならない範囲でゲームスピードを遅くしたようなものが、通に対してユーザーフレンドリーなぷよぷよとしてあり得るんじゃないかという考えを、俺はまだ捨ててない。(『ぷよぷよスリー』と呼んでいる)

2017年10月30日 23:32

「読点の限界、文における階層」

でもって、セカンドのプラス一列とは((ぐだぐだ連鎖においては、どんどん色制約が強くなっていく)ので、たまに位置を変える必要がある)という話なのではないか。

2017年10月31日 12:27

間違えてカーテンを全部閉めてしまって、一気にリズムが崩れてしまった。
カーテンを開けることでリズムは戻ったが、今日は三時間ほどしか寝ていない。
二度寝しようとして寝れなかったので、どのタイミングで起きたかハッキリせず、ここ半年か数ヶ月ほどで身につけた日課も、ベーシックイングリッシュの研究もしないでいる。

少し前に書いた貨幣論は失敗だった。というよりもっと単純に出来た。http://coconala-sample.blogspot.jp/2017/07/blog-post_25.html

まず『所有』とは最終的な使用権で、『使用』とは現在地点から目的の間に挟み込むような事で、『評価』とはその目的の達成にどれくらい貢献するかで、『相場』はそれぞれが多く得ようとする事を前提に他との交換ではどうなるかを考える事で生まれる。
合意の元で最終的な使用権がどんどん動いていく中で、個人個人の評価が社会化して、全体の評価のようになる。言うなれば、『目的の社会化』のような事が、資本主義だ。

追記:評価っていうのは「カレーが良いか、ラーメンが良いか」みたいな目的に関するものと、希少さみたいな前提に関するものがある気がする。条件を整えればAI同士でも相場はできるはずで、こういう風に、実際的に考えれば良いのではないかと思う。