やっとできた。後はgoogleAdとtwitterで人集めだなあ。
http://otoimi.net/
ニートって5年からというか、それまでは一時的な失業中というだけだよな。
例えるならどこかの国に3年半いましたみたいな感じで、それぐらいだとその人の人生におけるイベントというだけでしかなく、その中の一人として何かを語るには不足だという気がする。
それはちょうど社会に復帰できるかどうかのラインだろうな。そこまでは人生における通過点として語れる。中の人間として語れるのは取り込まれた後だ。
googleAdsenseは自動生成なのでダメと。
それでamazonでどういう広告を貼るかを考えているわけだが。
まあしかし、何かが必要という言説は本当に人を不幸にするね。まず自発性が損なわれるし。
SNSの文章が良いにしろ悪いにしろ極端に振れやすくてどこかポエムっぽいのは、それが無目的だからなんだと思うね。
小説やブログは目的があるからどこか収まりがある。こういう無目的なものはポエムしか無かった。
ちょっと自分という強固なゲームに熱心になりすぎる所がある。
本当にチェスみたいな所があるなあと思うね。
もう書かないようにしたい。
ベーシックイングリッシュの研究は9月中に完成させたかったが、ストレスで胃が痛いというのもあって、できないかもしれない。
昨日もう書かないと書いたが、今また書いている。
元々ここを使い始めたのは、1つ目は自分がストーカー呼ばわりされているという推測あるいは妄想があり、そのことについて弁明するためだった。
2つ目はクラスメイトあるいは哲学カフェの人々と連絡を取って、言語論において分かりにくい部分をせめぎ合う形でなく指摘してくれる人を探すためだった。
その二つの目的はすぐ、済んだり失敗がした事が明らかになったりで解消されて、それでもまだこのような形で使い続けていたのは、3つ目の、文章の練習がしたいという目的があったからだった。
昔から何度もtwitterからブログに移行しようとしたのだけど、いつも三日坊主だった。
推測するに、twitterは一人Q&Aみたいなもので構造が無いという点で文章とは全然違って、そういう所からブログに直接移行するのは落差が激しすぎた。
それでその中間にあたるようなサービスを探し始めたのだけど、意外なことに、それがなかなか見つからなかった。
400文字書けるという条件でも、たしかmastodonとshortnote(とfacebook)があるだけで、mastodonは検索の使い勝手が悪かったし、shortnoteは投稿が少なすぎて文章の練習に使って良いサイトに見えなかった。
facebookは当時の自分の選択肢には入っていなかった。
そういう時に、上の目的のためにfacebookに文章を書いてみて、facebookがそういうサイトだと気づいた。一つ一つの投稿で完結しているが、ブログほど重たくない。
ハンドルネームを考えるのがめんどくさくなっていたので、実名なのもちょうど良いと思った。
テレビでやっていた『そして父になる』という映画を観た。
子供の取り違えが6歳の時に明らかになってどうするかという映画で、面白いらしいと聞いて観て、面白かった。
観ている途中、俺が「物分りの良い子どもたちだなあ」とつぶやいて、それが母には「物分りの悪い子どもたちだなあ」と聞こえたらしかったが、しかしそれがそのまま俺の発言として通ってしまったという事があった。
子どもたちが無駄な抵抗をしないのは、おそらくそれがあると落ち着いて眺めるという事ができなくなるからで、つまりおそらく良い映画にするためで、それで俺には良くなっていた。
観終わって、そのことで「お母さんは俺にあのお父さん(エリートでアスペっぽい、俺はエリートでは無いが)みたいな役割を押し付ける所がある」と言って、なんだかんだ流されて俺が悪かったみたいになって、二階に上がってこれを書いている。
鑑賞姿勢として不純かもしれんが、俺は観ながら「役割」という事について考えていた。
作中の授業参観シーンでみんなニコニコしていて、こういうのは歴史的には何時頃からなんだろうとか、アフリカとかだと父はどういう感じなんだろうとか、そういう事だった。
考えてみれば今時片親の子供が結構いるわけで、するとこういう俺の親の育て方が悪かったからどうこうも役割みたいな所があるのかもしれん。
感想としても言説としてもありふれていると思うけど、そもそも古代ギリシャでは「偽善」という単語には「演技」という意味もあるらしいし、それにもっと言えば俺はクリエイティブな感想を書きたかったわけじゃない。
と言うと演技が良くなかったみたいだが、良かった、というより厳密には常に俺には分からない。
偽善だとも全く思わなかった。とにかくそういう夜だった。
ベーシックイングリッシュから逃げるのにぷよぷよをやるので、最近妙に強くなった。
調子が良い時は本線の長さを把握して有利になるように動けたりして、そうすると試合になるので、その時に限ればだが俺ももうそろそろ上級者かという気もしている。主観は当てにならないものだけど。
自分の観戦を採点し始めたのがでかかった。人間は目的に最適化される所があるから。本線を組むという目的に最適化されていたのを更新できたのも大きい。
あと、こんな戦法を思いついた。
こういう2ダブ作って2連鎖(http://inosendo.com/puyo/rensim/?%3F60000040000640400640570640550454477556476445766466577655766)→
・相手3連鎖→2ダブ
・4連鎖→連結増やしたり黄色巻き込んで2ダブ3
・5連鎖→http://inosendo.com/puyo/rensim/?%3F400000575650554454477556476445766466577655766
・本線→一つ上の奴から伸ばして発火
ああいう消えない赤は連鎖尾に巻き込みやすいし、2ダブは2ダブだから狙うだけなら実戦的なのが嬉しい。可能性だけは感じる。
あとは http://youkandayo.blog.fc2.com/blog-entry-5.html みたいなので、後から同時消しにするか選んだりできないかとか考えている。
ただぷよぷよは本当に休憩に向かない。一時期ベーシックイングリッシュの研究に取り掛かると胃が痛くなっていたけど、休憩でぷよぷよをしても胃が痛くなっていた。
それでもやっていたけど。
TPPの時もそうだったけど、アメリカが動くと、「僕たち私たちは卒業します」みたいな声での「戦争反対」「TPP反対」みたいなノリは一瞬で吹っ飛ぶね。
相手がトランプでなくてオバマでも、アメリカに何か言う時はああいうトーンではありえないだろう。ヨーロッパはそもそもマララみたいな所があるけど、それでも少し違ってくる。
相手が北朝鮮や韓国やアジアだと、俺が想像するに、同じトーンで行く気がするんだよな。習近平ぐらいになると分からなくなるが。いや実際そうだろう。
その違いが何なのかを考えると、これは「同じ学校にいるかどうか」だろう。例えば北朝鮮は同じ学校のならずものというわけだ。
内容はともかく、ああいう口調で話されるようなものは全て下らない。
そういう人間は投票の無意味さを理解すべきだ。
日本人がアメリカの政治について熱心に語るのは馬鹿げているという意見があったりするが、もし投票に意味が無ければ、日本人が日本について語るのも同じような事だという事になる。
投票には実効的な側面とアンケート的な側面がある。
まず実効的な側面は、自分以外の投票総数が偶数の時は、引き分けに一票入れる場合だけにしか、奇数の時は、自分の一票で引き分けにする場合だけにしか、一票を入れるという事では存在しない。
そして残るはアンケート的側面だが、ある程度以上の票数になれば、統計的に一票は誤差にしかならない。もし印象が変わるとしたら、そちらの方が論理的におかしい。
その現実を踏まえれば、投票には意味が無いし、現実に意味がない事をして何かをした気になるぐらいなら、家の中で祈っていた方がまだ理性的だという事になる。
投票による貢献は人間としての貢献じゃない。統計的なサンプルになるというのは、言うならば動物としての貢献でしか無いんじゃないか。
その根本がある以上、政治についてまるで一員であるかのように語るのは間違った事でしか無い
俺は両親について不満がいくつもある。
特に父親は、自由気ままに振る舞える事こそ父性だと考えている所がある。
食事の時にも両親が二人で話すばかりで、子供が発言する事は無い。別に発言しても良いわけだけど、小さい頃から両親二人で話すばかりだった。
何か真剣な話になりそうだったら、全部冗談みたいにして流れていってしまう。食事中に聞きたくない、他色々な理由を付けていつでも聞いてもらえなかった。
両親も人間だから間違った事はあるわけだけど、言い争いになって例えば母親が俺の方に付いてくれたことは本当に一度もなかった。間違っていても常に二人組で、常々両親というよりカップルに思えた。
教育方針は唯一習い事をやめさせないだけ。姉が塾でいじめられても、そして俺が野球が嫌で頭が痛くなっても、やめさせてくれることはなかった。
同居人としては悪くないんだろうが、親として振る舞ったかと考えると非常に疑問だ。本当にどちらかが激怒する以外の形で真面目な話になった憶えが一度もない。
それだけだと言ったらそれだけだがな。こういう事は書くべきでないと道徳的に責める奴もいるのかもしれないが、そういう家族についての一般論をかます奴というのは、どんな人間でも家族になり得るという想像力が無いんだね。
精子は一億なんだからどんな人間でも子供になり得るし、逆に言えばどんな人間でも親になり得るという事を忘れてはならない。生きていてどんな人間ともいざこざが起きないという人間でなければ、家族についての一般論はかませないはずだ(し、それはつまり人間一般について語れば済む話で、家族についての話にする必要はない。)
私は政治について、大きく二つの立場を持っている。
一つは「ディベートとして豊かな社会ほど良い社会だ」というもので、これはおそらく思春期の頃にクールだったweb2.0と2ちゃんねるの影響を受けている。
客観的に自分の趣味でしか無いし、ディベートとして豊かであった結果悪い方向に進んでいく事はよくあるので、思想としても間違っている。
二つ目は「個々人が合理的に動いて築かれる社会こそ堅牢な社会システムであるはずだ」というもので、もっと言えば「義憤にかられて余計な事をするな」という事になる。
少し前に書いたように投票は(※個々人の利害レベルでなくても)非合理的な行動でしか無いし、俺の考えでは、その非合理的な前提が原因になって社会が不安定化している。
だから俺は社会的にも投票には行くべきではないと考えている。これは完全に一つの政治的な立場だ。
結果がどうなるかは知らないが、結果がどうなるとしても、投票を否定して回ることが間違った事だとは思わない。
社会レベルではともかく個人レベルでは間違いなく論理的に正しいからだ。論理的な間違いを強い続ける社会システムなら無い方が良いだろう。
論理的に正しいから社会的に正しいとは限らないが、論理的に間違っている事が社会的に正しくなる事は無い。投票に行くというのは「1+1=3」みたいなもんだ。
『北朝鮮・金正恩党委員長の声明全文(日本語訳)』
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3165305.htm
『北朝鮮 「李ヨンホ外相、国連第72回総会演説 (조선 리영호외상 UN72차총회 연설)」 2017/09/23 日本語字幕付き」』
https://www.youtube.com/watch?v=dpcVYL0ewhU
まあ人間は自己についての決定権を持たない奴を舐める傾向があって、それは国際においては軍事力で、現代における軍事力は主に核なわけだから、核を持とうとするのは自然な事だろう。
俺は知らんが、おそらくインドや中国も似たような道を通ってきたわけで、それでも持つのと持たないのでは持った方が有利だった。つまり構造的な問題でしか無い事はそれなりの奴であれば分かっているはずなのだけど、それでも茶番を演じるのが社会的生物というものの性だろう。
まあ俺は、日本人としてなら核保有国を同一視して核は国連が持つべきというようなポジションを取るのが安全的かつ有利だと思うなあ。
そういう言説が出てこないのは、発言者の数が限られてるのと、あとは何らかの抑圧があるのだと思う。