どうしてネットで友達ができなかったのかを考えると、自分と面白いと思うものの種類が似ている人を、googleでは見つけにくかったというのがあるんじゃないか。
考えてみれば有名人以外にそういうのを一人見つけて、まあその時は相手が俺に興味を持ってくれなかったが、もし相手が興味を持てばそういう関係になっていただろう。
もしgoogleがそういうボンヤリとしたものを扱えればもっと見つかったはずだし、もっと見つかれば俺はそういう人間にほぼ例外なく興味を持つんだから打率3割ぐらいで友達になっていたはずだ。
重要なのはその人自体というよりは面白いと思うものの種類が似ていることで、これは俺に限らず、友達というもの一般に当てはまる法則だと思うね。
というのも人間はつるみたがるし、何でつるむかと言ったら精神とか類型でつるむ。
それはつまり面白いと思うものが似ているということだ。
友達っていうのは実は人間に限った現象では無い。
猿でも、ある特定のオスとメスがよく近くにいて、しかもそのオスとメスは交尾をしなかったりするらしい。
友達というのは、個人と社会の中継地点のような存在なんだろう。
そうしてみると孤独というのは、社会の最適化の問題と考えることができる。
逆に社会の最適化の問題は友達の問題だ。
俺には社会が進化しているという発想は無いね。
今ある社会が最善だとは思わないし、だから理論もその良し悪しと何が主流になるかは全然違う話だと思える。
残ったものはただ残っただけで、例えばそれが現代を作っている。
後世に残るというのはそれに加わるというだけで、それ以上でもそれ以下でも無い。
まあこれは元2ちゃんねらーの意見でしか無いがな。
文化っていうのは失われるのが基本だ。あらゆる文化は失われてきたし、残った文化もいつかは失われる。
しかしだからそれが良くなかったという事にはならない。それ自体の良し悪しと残るかどうかはゲームが違う。
俺は正しいと思う事しか言ってないし、正しいし面白いものをurlで紹介している。
元ネット民なら分かる話ばかりだろう。
これはエアリプだけど、あなたは私がどれだけ凄いか分かっているでしょう。
私に敬意を払わないとあなたのアイデンティティが危機に晒されますよ!
ステージの上でカッコつけながら体重計に乗って転んで恥をかく夢を見たけど、正夢になっちまったな。
批評の社会性って別に市場で残れば良いって話じゃないだろう。
携帯小説がどうこうの40代バージョンとしか思えねえ。
大体俺が何をしたというのか。逆ギレでしか無いでしょう。
寝る時にパジャマを着ると股間が蒸れるという事でパンシャツで寝ていたが、風邪を引いてしまって、どうすれば良いか調べると下の毛を剃れば良いらしい。
なるほど、欧米人がなぜ下の毛を剃るか分かって、眼から鱗だった。
白人と黒人は汗の量が多い、だから下の毛を剃る必要がある。
今までは肌と毛の色の組み合わせの問題だと考えていたが。
堤防で花火を見ていたら、その横でいろいろな建物が光っていて、自分がやっている事の意義がよく分からなくなった。
あれはもしかすると皆で一緒の所を見るというイベントなのかもしれない。
またその前の、その他の所の花火の時には、少しでも近くに行こうと自転車を漕いだりしたが、転んだら怪我をするという中で、自分が火に向かう虫であるような気がした。
結局途中で引き返したけど、向かっている間は花火が号令のように思えてならなかった。あくまで気まぐれで、特に見たいというわけでも無かったし。
日々自分の浅ましさについて悩んでいるのだけど、考えてみれば「浅ましい」という単語には「物質的にがっつく下層階級」というニュアンスがあって、それには「物質的にがっつくのは真の上層階級ではない」また「物質的にがっつかないのは真の下層階級ではない」という自明視が前提にある。
何かそれについて悩んだり判断したり批判したりする事自体が、自分にとって良くない事なのかもしれないな。
というのも物質的にがっつかないから祭り上げられる事も無ければ、物質的にがっつくから降ろされる事も無い。
その二つは本当は関係の無い事で、物質-精神の社会階層の構図に入り込む事自体が、偏見とせめぎあいに巻き込まれる事を意味するんじゃないか。
ニートに対する批判には、資本主義の文脈のものと、国家予算の文脈のものの二種類があるわけだけど、俺はどちらにも論理的な反論ができるんじゃないかと考えている。
まず資本主義の文脈の批判には、売るのだけが資本主義でなく、売らないのも資本主義だという反論ができる。
相場が成り立つには、売らないという判断も売るという判断と同じくらいに重要になる。
その意味で労働力を売らないというのも、労働力を売るというのと同じくらいに重要なコミットだ。
そして二つ目の国家予算の文脈の批判には、これは自分の中でハッキリしないのだけど、こういう反論ができるんじゃないかと考えている。
国家の予算とか借金について、我々は何兆円の予算であれば食料でこれくらいという計算をするのだけど、実際にはその食料の生産の現場は資本主義にある。
経済が滞るのではないかという心配があるだけで、それが無ければ理論上いくらでも税金をかけて集めることができる。
物質的な量というより経済の循環の問題ならば、政府は貯蔵庫というより調整弁と考えるべきで、それなら売らないという判断にお金を出すのも政府の役割に適った事なんじゃないか。
つまりたとえ生活保護予備軍だとしても、一概にニートが足を引っ張っているとは言えないんじゃないか。
ニートが一人もいない社会より、ニートがいる社会の方が良い社会なはずだ。
無用の用じゃないが、もしニートが一人もいなければ、世界で初めてのニートにかかるプレッシャーには凄まじい物があるだろう。
あらゆる状況を網羅した「言い訳の教科書」っていうのがあったら売れないかな。
言い訳で俺の右に出る者はいない。
世間の奴らには脇が甘いと言うしか無い。
例えば酒や煙草をやっている奴というのは、アルコールやニコチンに操られている。そして彼らはそれを自覚をしている風に言うが、それが最大の言い訳だという事に気付かない。
確かに禁煙だの分煙だのは馬鹿げているが、それとこれとは全く関係ないのだ。
ちょうど自分にはピンと来ないのだけど、歴史的に振り返れば人文知をリードしていたのはやっぱりソ連だったんだろうな。
ポストモダン思想もスターリン批判からだそうだし、今人文知が弱くなってるのもおそらくはソ連が無くなったからだろう。
ソ連が崩壊した時に20代だった今の40代後半以降が大学からいなくなれば、人文知というものはもう昔とは違う何かになっているのかもしれない。
人々が人文知に抱く、権威的で社会を変え得るようなイメージは、どこかでロシアのものなのかもしれん。
そう考えてみると、人文知の権威性の現在形はプーチン大統領だという事になる。
今ちょうどhttp://otoimi.net/というサイトを作っとる。
作っといて何だが、「t」の意味が本当に「結果」なのかが怪しくなっている。http://tokoton-eitango.com/eitango/wordindex/T
「達」、「AとB」、「だった」など、「空間における集合的なもの」と考えた方が正しいんじゃないかと今気づいて、まあ流石に弁明できないという感じだ。
そう考えたほうがtとd、kとgの関係も分かりやすくなるが、しかしそうなると「結果」が無くなってしまう。
そもそもこのリスト自体が二度目の変更になっている。
http://2016-4-14.blogspot.jp/2016/06/blog-post_70.html
https://medium.com/@0h0n0/6b9a7a2f2214
客観的に良い研究だと思うけど、困ったなあという感じだ。
日本人がキリスト教を批判するのは良くない。日本人が批判するなら道教なんだというのは、まあ最近よく考えるね。
道教っていうのは春秋戦国時代で敗れた奴らに支持された思想で、その根底には平等思想が入り込んでいるんじゃないか。
そういう人間的なものが入り込んだ思想は、思想として純粋ではない。
人間の方がより精神的なのだと言われたら、確かにそうなのかもしれない。
テレビでは捕食シーンばかり流れるが、実際には虫などの人口密度はそこまで高くなく、また生態系を保つ程度にしか肉食は存在しない。
人間が捕食シーンを見たがるのには、自然は弱肉強食だ、だから文明を築くことには意味があるという、文明の自己肯定みたいなものがあるんじゃないか。
精神性とは何だろうか。
俺は何か物凄く馬鹿らしいゲームに巻き込まれているんじゃないか。
gogengoの人からの返事が無くて困ってる。
頼んでいる立場だから駄目ならそれはそれで良いけど、こういう風に返事が無いのが一番困る。
今まで自説を主張して散々な目にあってきてるから、わざを俺の時間を無駄遣いさせているんじゃないかと考えてしまう。
コードを微調整して別のサイトからページを生成する用意はしたんで、明日になったらそこに切り替える。
まあコードっつってもそんなに大したもんじゃない。
pythonの標準ライブラリで、urlからhtmlで書かれたページ情報をテキストで引っ張ってきて、そこから正規表現というパターンマッチで欲しい情報を抜き出して、データベースに入れる。
後はそのデータベースの情報を元にprint関数を使いまくってページの反復する部分を生成する。
俺には拍子抜けするほど原始的な事しかできないし、pythonではそれ以上する必要性を感じない。windowsとかlinuxみたいな、パソコンを操作する方法の一つと考えたほうが現実的なんじゃないか。少なくとも俺達には。
pythonな、windowsで上手く行かなくて調べたりイライラしたりする感じに凄く似ている事を発見した。
まるでwindowsの新しいバージョンみたいにイライラする。
使えるようになってできるようになることも似たような感じで、良いソフトがあればそれを使えるようになる。俺にとっては以上って感じだ。
それはpythonがwindowsだとかというより、windowsなどのグラフィカルユーザーインターフェイスというのがpythonみたいなものをグラフィックで包んだだけというのが正しい。
あのバーから設定したり、ここにあったのかチクショウみたいなのが、テキストで指定できるようになっただけだ。
マニアになると違うんだろうが、一般ピーポーに役立つレベルという事であれば本当にそれだけで、イライラするだけで本質的な事をしているとは全く思わない。
プログラミングが一般教養になるとはつまり皆がイライラするということで世も末だと分かった。
人間が作る内と外というのは、その内側がある分、子供のような恐ろしさがあるね。
別に人間に限らず犬と豚とかでもそうだけど。
理性があるからアリなどにも適用しないと道理が通らないと考えるようになるけど、道徳など人間の本質はあの子供のそれだ。
道徳は子供らしさとか女性らしさとかと似ている。その内側のルールへの疑いに対する無邪気な、しかしその分残酷な所がある抵抗。
内側だろうが外側だろうがルールとして合っているかどうかはともかく、認識として間違っているのは絶対だ。
あえてとか何だとかでなく、認識として間違っているのは絶対というのは客観だ。
こう言うとシビアな大人らしさみたいだが、印象という事で言えば大人らしさも女性らしさや子供らしさと同じで、そういうルールから逃れて、信じるとしても言い訳のあえてでなく本当のあえてであれるのが、精神の自由というものだろう。
まあ「自由」というのもそういうルールでしか無いんだがな。
とにかくそういうルールからは常に自由でありたいという考えだけはある。
こういう言動も「青年」というルールという気もする。何にせよルールから逃れるのが良いというのは俺にとっては原則で、また精神分析だとかを見ていると精神にとって原則であるように見える。
もし言語論が認められて余計な部分で発言権を得たら、投票の否定という事だけを言い続けたいと考えている。
哲学のお題に困ったらベーシックイングリッシュのリストを見ればいいぞ。
今のお題は「確かさとは何か」。後ろからやってる。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~shu-sato/esp-siryo7.htm
二人目にあたってる。
一人目の人は連絡が取れて数分後に返信してそれ以降取れなくて、今までの経験から想像が膨らんで精神衛生が悪くなった。
二人目はそもそも取れないかもしれないという話だが、まあ別のことしながら気長に待つかな。
誰かの批判が頭に浮かんだが、まあ妄想にエアリプしても仕方あるまい。
仮に批判する奴がいたとしても、言わせとけば良い。
一般的に歳上って、歳下に何の権限があると思ってるんだろうな。
中古で買って、同じ値段で中古で売るという事ができるようになりたいと考えている。
amazonマーケットプレイスだと、一冊辺り手数料とかで350円かかって、次の350円は次の人が払う。本棚の一段が30冊ぐらいだとして、一万円ぐらいで埋まる計算になる。
物質は使えば劣化するが、情報は使っても劣化しないのでこういう事が可能になる。ある意味、情報という意味ではこの方法の方が本質的なのかもしれない。
まあしかし日本っていうのはつくづく家来の国だね。
書を読んで私を薄くするみたいなのは上の理屈で、姿勢を正して本を読んで、少しでも乱れれば殴るみたいなのは下の理屈だな。
努力が好きなのもそうだし、上官が駄目で兵隊が良いっていうのもそういう所から来とるんだろう。
そもそも「日の本」っていうのも、道教の理屈で中華的に活かしたほうが良いですよみたいな話だろうし。
仮に日本人としてという事なら、中華-日本、あるいは西洋-日本というような枠組みを抜ける必要がある。
趣味でやって、結果的に凄いものができるというのしか無い。
階級闘争とかでなく、脱社会化しか無い。
つまり最初から、不本意にという形でしか日本人として何かをやるという回路は用意されていない。
そんなものは最初から考えるだけ無駄だ。
童貞と鬼を足して二で割ったような顔で作業をしている。
昨日なんか廊下で合った母親がワッなんて声を出しやがる。
「responsible」にはディベート的な主体性がある。
「責任」には主体性が無い。
日本人は駄目だったと言うためだけに三人目にいってみようかという気分だ。
まあ良さそうなのが見つからないから自分で生成するか。
馬鹿みたいだ。
その場合、海外から語源のリストをコピーして、フリーの英和で生成する事になるわけだが。
もしjmdictというのに語源が載っていたらそれもおそらく外人が作ったもので笑ける。
最悪の場合はweblioから意味を調べるスクリプトみたいなのを、五分に一回ぐらい回すことになる。
まあしかし世の中っていうのは物語じゃないね。
俺もつい優れた俺と駄目な日本人という物語を作ろうとしてしまうのだけど、そういえばこうやって繋がっているのも、言語理論を他に分かるようにする際の編集者みたいな、協力者を見つけるためという損得で接触した哲学カフェと元クラスメイトなんだものな。
意識高い系に限らず、意識が高い人たちは後から物語で出る杭だとか突き抜けるだとか足を引っ張るだとか言うわけだけども、すでに認められた物語という高められたホームでなく、アウェーでみっともなく新しい事を言わないと、その本当の感じというのは分からないだろう。
理論の完成度が高ければ自分の自信には繋がるが、おそらくどんな理論であれ得られる体験は同じだろう。
本当に物語じゃないね。
認められた際には、ついでに投票の否定というロジックもねじ込んでやろうと思う。
睡眠時間が少ないと気分が荒れやすい。
実は今朝、ぷよぷよの新しい戦術を思いついて、それで興奮して寝れなくなってしまった。
最近トッププレイヤーが第二折り返しをリバーシブルにしたりしているけど、そのリバーシブルの内容をマルチにしてアドバンテージを取れないかという考えなのだけど。
中盤においては消える量が同じならマルチや連結にした方がアドバンテージが取れる。
3連鎖繋いで6連鎖の合体など、普通の連鎖ではどの連鎖でも互角程度だが、例えば2ダブから3ダブとかだとマルチな分有利になる。
元々リバーシブルを練習していたのもあって、最近普通に組んでリバーシブルになったりするから、意識的にそれを一歩進めれば革新を起こせるかもしれない。
適当なジャブ2連鎖から、逆発火大きめの3ダブとかでも良い。
とにかく理論上マルチのほうが中盤においては有利。リバーシブルの第二折り返しでそこを模索していく。
普通に打って5連鎖、逆発火で3ダブとか凝視しなくても強いかもしれない。
相手が3連鎖なら3ダブで有利、相手が6連鎖なら伸ばして有利。
合体も一つの形に複数の意味を持たせたものとして一般化できるかもしれない。
複数の意味による勝利。
まあ例はおかしいかもしれないが、原理は単純だ。
それにリバシもそうなりやすい形で連鎖を組むのも、一瞬意識的になって仕込むのも、仕込んだ後に残しが致命的にならないようにするのも、それぞれそんなに難しい事じゃない。
それでマルチのほうが有利なんだから、十分一般的な戦術になり得る。
いやあ難しい。リバーシブルだけなら局面局面で簡単に成立するのだけど、戦術的に有効な同時消しにならない。
結局俺は、幼少期のオウムバッシングのテレビ放送に洗脳されている所がある。
他の日本人はカルトだけを警戒するようになったが、俺は論理的に全宗教を否定するべきと考えるようになった。
他の日本人とはその論理性、あるいは空気の読まなさの違いしか無かった。
それに加えてやはり、幼少期に繰り返し見たジブリにも洗脳されている所がある。
洗脳と言うと妙だが、強く影響を受けている。
自分たちより10上の世代には、テレビのドキュメンタリーが無かった。そこが違う。
論理、また倫理との付き合い方を考え直す必要がある。
感情的に正直であるだけでは足りず、論理的であるなら、その論理性の部分で失敗する。
自分の精神性が、まあ悪かった。またアダルトチルドレンみたいな所があって正直じゃなかった。
そういうのもあるわけだけど、何より倫理を正面から実行したのがまずかった。
妙な前提があれば、必然的論理的に妙な結果になる。そのこと自体がまずい。
まあ、人間関係の懸念のようなものは、仕事がふっとばすだろう。
まあ仕事に頼るのは良くないがな。
ただ一方で、人間関係の懸念も最初からある必要は無い。
頭の中でいつも自分を説明、また自己正当化している。
それでSNSを使うとこうなるわけだが、facebookというのはこういう使い方をする場所じゃないだろうな。
ハンドルネームを考えたり匿名でやるのが嫌になった、また140文字でなくもう少し長い文章を書きたくなったというのがあるのだけども。
もしディベートだとしたら、不利な条件も晒す必要がある。
論理や倫理との付き合い方が変われば、こういう何でもかんでもベラベラ書くようなスタイルは変わるのかもしれん。
今は「ticket」とは何か、「stem(幹)」とは何か、「stamp」とは何か、を考えている。
ぷよぷよにおける「折り返し」とはつまり「横の連鎖と逆向きの横の連鎖を繋げるための縦の連鎖」の事なのだけど、実戦では隙を減らすため、底上げなどで縦の連鎖をコンパクトにまとめるという条件が付く。
最近観戦する時は、試合が終わるたびに自分の観戦に5点満点で点数を付けるようにしている。
ああ2点だなとか言って、傍から見たら偉そうにしか見えない。
ただそれで確実に凝視力が上がってきた。
最近の俺はニートのくせに頑張り過ぎかもしれない。
ストレスで白血球が死んでるのか、臭い玉が溜まってるような感覚が常にある。
抜け毛がひどいのは、ドライヤーをかけるようになって熱でダメージを受けているせいなのか、朝にもシャワーを浴びたりするせいなのか、それともこれもストレスなのか。遺伝では無いはずだが。
一日4時間ぐらいしか働いてないはずなんだが、俺の限界はどうやらここら辺にあるらしい。
今日はベーシックイングリッシュの研究はやらなかった。
数学を集合論とフローチャートで基礎付けれないかという模索と関係して、午前中は一時間数十分ほど https://www.youtube.com/watch?v=SLQEIDeZSmQ を見ていた。
ぷよぷよして昼寝して金縛りに合って、夕方からは http://dibtp.hateblo.jp/entry/2014/02/16/140256 を使って接頭辞だけ引っ張ってこれないか模索して、最初は上手く行かなかったが目処が立った。
あの動画の球には説明されている通り縦と横の二側面があって、縦の問題は横の捻りで解決されていて、横の問題は縦の捻りで解決されている。
その縦かつ横みたいな問題は、ああいう空間を思い描かないと難しいかもしれない。
メタファーに近い何かなんじゃないかと考えていたが、確かに研究している奴はいるらしいし、こういう空間を思い描かないと成立しなさそうな問題がどれくらいあるか次第という感じだ。
ただコンピューターに厳密に教える時には、空間を思い描くと言っても人間が思い描くそれじゃないはずで、じゃあそれは何なんだという問題がある。
笑いっていうのは理不尽な状況であるほど発動するからありがたい。
ストレス下においてナチュラルキラー細胞が活性化する貴重な回路。
熱血とか悲劇とかその他もろもろは状況を選ぶが、喜劇にならない状況みたいなものはおそらく存在しない。
その意味で普遍性があって、逃げ道として優秀。
世間では21世紀的と称されて超越論でなく超越に関する物事が起きているようだけど、どうも自分には死ぬまで縁が無さそうな感じがしている。
トランプとかブレグジットとかの動機は、金持ちから税金が取れなくなるのは困る、だろうし、両陣営ともにそれについて語らないと良い言説にはならないんじゃないか。
言わないのも良くなければ、分からないふりをするのも良くないし、その上で茶番が繰り広げられるとなれば不快になるだけだ。
何が良くない、だ、という感じだが。
どうして他の奴らは超越についてストレートに語らないんだろうか。
まあ狂人だと思われるからだろうが、匂わせたりまた宗教的な形だったりでなく、普通に語ってくれれば良いのになあ。
この世界は俺を惨めにさせるために用意されているんじゃないか、と考えてしまうぐらいだ。
哲学があれば概念から自由になれるなどと考えていたが、あれは全く間違いだった。なぜなら理論構築の腕が凄まじい俺が悩んでいる。俺が全く自由になっていない。
「ありがとう」は何を伝えているのかを考えると、頼り頼られの関係の成立なのかもしれない。
精神の腐臭とかね、ほっとけよと思うわけ。
そういうのは大体子供の頃からなんだから。
責任(responsibility)って多数派になればなるほど軽くなるのが気に入らない。
そういう社会における原因を特定して排除するような党派性というか。
全員が原因だった場合に、全員が責任を持つという事にならない。
責任(responsibility)には複数の意味が入り込んでいる。
その上で、人数関係なく存在する「responsibility」は持つようにしたい、というのは最近になって考えるようになった。
できるかどうかはともかく。
この「responsibility」は他者にどうこう言われる問題じゃないだろう。
その「responsibility」とは、つまり普通の意味での責任(responsibility)じゃない。
俺の意見を聞いた後、捨て台詞を吐いていった人間全員がそれぞれ持つような「responsibility」だ。
それを自分の中では持つ。それ以外の責任は持たない。
ぷよぷよ、ここ数日は格下相手への安定をテーマにやっている。
・端の確定を再優先してゴミが真ん中に来ないようにする。
・34列目の回収を意識して中盤のフィールドが平たくなるようにする。
・中盤においては高く積めるなら高く積む事で積載量を上げる。
みたいな感じ。
凝視は中盤になると途端に見えなくなる事に気づいた。
原因は自分で二ダブを組めないことだろう。
それでトムソンの連撃の練習 http://www.nicovideo.jp/watch/sm1985238 と2ダブの研究をやる事にした。
下の安定的な積みで、少しの間2ダブとか凝視に集中する事にした。
この「絶対領域3・4」、なんかACぷよらーはこういう窪みの理論を持ってる人が多いらしいけど、どうも俺は好きになれない。
https://www26.atwiki.jp/puyowords/pages/287.html
まあとにかく似てるけど俺は違う。
「後悔」だとカッコ悪いが「regret」だとカッコいいね。
後悔とは何かを考えてみると、これは理屈では説明できない、なかなか精神分析的なものだと分かった、というより誰かが言ってたな。
こうすればという可能性で苦しむという事。
ここ数日は足場が崩れるみたいな事ばかり経験している。
例えば一昨日にポップコーン屋のポップコーンLサイズを5分の4食ったら一日分のカロリーで、3日でバランスを取ったら良いという話で、昨日今日と夜ご飯以外はヨーグルトとカフェオレだった。
もっとハッキリ言えば、ぷよぷよであまりに弱くて、理論みたいな事を書いたのを後悔している。
あとはノベルゲームみたいな分岐するような世界観に妙に説得力を感じる。
もう社会から外れて9年になる。
世間は昼間の公園みたいに明るい。というより、昼間の公園が明るいのはそこにいる世間が明るいからだな。
他者が俺にどういう判断を下しても、俺だけは死ぬまで俺を抱える必要がある。
昔見た動画を探すために、昔の自分のtwitterを読んだら、意外に明るくて驚いた。
進化というより、変化しただけだったか。
「三島由紀夫vs東大全共闘」を読んでいる。
序盤、俺の目には超越(≠超越論)の話をしているようにしか見えんが、違うんだろうか。
これにしろ、これとは違う最近の21世紀的という言説にしろ、80年代のガンダムZZの「子供はみんなニュータイプ! 見せてやろうじゃないの! 大人たちにさ」というキャッチコピーにしろ、いつの時代も行く奴は行って行かない奴は行かないという話としか論理的に思えないのだけど。
その推測自体は、どういう人間であれ論理的に弾き出されるという事は強調しておきたい。
現代の宇宙論では宇宙は複数あるそうだが、ならば空間と時間を超えた上で空間と時間を再現する必要がある。
つまり世界の根本は物理的というより数学的なはずで、具体的には、何と何が同じで何と何が違うかの集合論、何が何を宛先にしていて何を宛先にしていないかのフローチャート、そういうものや、そういうものをそもそも成立させるようなものであるはず。
そういう推測の上でこういう文章を読むと、なるほどその原理に通じる奴らがいるらしいという事になる。推測としては100点満点ではないか。