自分の言語論を広めるために、pythonだのデータベースだのを勉強している。
正規表現という奴(テキストからパターンでテキストを抜き出す機能)で、他人のサイトから単語と意味のリストを抜き出して、sqliteというのでデータベースに入れるみたいな事をしている。
手でやるよりは楽だし、サイトの持ち主に断られたら別の所から持ってこれるのが良い。
ただ外出なども含めて、ここ最近は少し頑張りすぎている感じがある。特に音楽イベントにでかけたのは精神的にこたえた。
おそらくそれで今風邪をひいている。
断捨離でパジャマを捨ててしまったのも関係しているかもしれない。
ここ最近、自分はアダルトチルドレンだなとよく思う。
兄弟の内の真ん中っ子である所も影響していると思う。
真ん中っ子というのは言うなれば中間管理職なわけで、上や下のように感情を素直に出すことができにくい。
物心付くか付かないかですぐ中間管理職的なポジションに置かれる。普通に考えれば人間的に歪まないほうがおかしい。
まあしかし考えてみれば、明治以降の日本というのは次男たちが集まって作った国なんだね。
そりゃ国として歪まない方がおかしい。
江戸時代以前の日本と、明治以降の日本の違いはそこだろう。
http://www.crank-in.net/kininaru/news/11823
イーロン・マスク、疲れてるな。
http://www.gizmodo.jp/2017/07/exclusive-elon-musk-explains-lusty-floor-tweets.html
外国の情報を探す際の参考に、日本の情報をいろいろ探してみて、twitterのトレンドって凄いんだなと思った。
言語化できないから空気なわけで、日本にいながらある国の空気感を知りたいなら、その国のSNSのトレンドを見るのが一番偏りが少ないんじゃないか。
よくよく考えてみると、ワイドショーが政治ネタを流すのは政治的使命とか関係なく、ただ視聴率が伸びるからなんだよな。
それが本質だとすると、真面目なニュースの質が落ちてワイドショーがあるというより、質が落ちた娯楽としてワイドショー、そして真面目なニュースがあると考えるべきなんじゃないか。
テレビがニュースを流さなかったら、おそらく政治について考える人間は今よりずっと減るだろう。そうしてみると、こっちの方が本当の認識なんだという気がしてくる。
皆楽しいから政治をやっているという事実がある。
本当につまらなかったら誰もやらない。
忘れられた福島のように…というか正直、福島も思想的に楽しかったからやってただけだしな。
グローバル化というか、国内で直接的にこういう傾向を推し進めたのは竹中さんだよね。
http://www.from-estonia-with-love.net/entry/pjapan
経済学者としての失敗は明らかだと思うんだよな。
国家レベルでは直接的に竹中さんの政策が原因になっていて、竹中さんは国家のブレインとして働いたわけだから。
ここ最近の日本政府を語る上で、小沢さん並に重要人物なのは間違いない。
逆に安倍さんがヒトラー並に重要という認識はよく分からない。
右に傾くのが国際的な現象でしか無い事はもう明らかになっている。
個人のリーダーシップが国家に与えた影響という事で言えば、小沢さんと竹中さんの二人だろう。
そもそも労働力とパッケージ化されたサービスを同一視するのがおかしい。
パッケージ化されたサービスなら流動性が上がれば上がるほど適正価格に近づいて健全になるわけだけど、労働力は流動性が上がれば上がるほど良くなるというものではない。
その理論的失敗が政策から直接的に響いているように見える。
自分でこれは結構ナイスだと思った。テクニカルは粗いけど。
https://coconala-sample.blogspot.com/2017/07/blog-post_10.html
「〜と思う」っていう言い回しはあまりにSNSポエム的だ。
どうもtwitterにキャラを最適化しすぎていた所があった。
以後特にその言い回しに気をつけたい。
あの借金の分析は、時間おいて読むとテクニカルが粗いなんてレベルじゃなくてガックリ来てたけど、それでも良いようで悪いようで良いみたいな文章じゃないか。
芸術と経済だと他にはマルクス主義とかがあるようだけど、それは経済が下部構造で、芸術が社会だとかと同じく上部構造という感じでしょう。
俺のは逆だから、やっぱり前例とは関係ない、少なくとも俺の知る限りでは。
依頼者のサイトで掲載して貰えるそうだけど、二重コンテンツだとgoogleの仕様的にマズイという事で削除した。
一時期占いにハマってたけど、俺は地獄に落ちますかと聞いてyesと出て、本当に?と聞いてまたyesと出て、本当の本当に?と聞いてnoが出てから一切やっていない。
そもそも日本の批評の伝統という奴は文学が近代のインプット装置だった事と不可分のものとしてあって、批評空間だとかの言動もおそらくポストモダンでそれが無効になった事と関係している。
その意味で日本の批評は常に社会的なものだったし、批評の復興という事ならそういう社会的なものが無ければ二次創作でしか無いだろう。
それが良いって事なんだろうけど。
https://twitter.com/hazuma/status/885465005319008256
https://twitter.com/hazuma/status/885465506571894784
https://twitter.com/hazuma/status/885466038153887745
https://twitter.com/hazuma/status/885649571145056256
https://twitter.com/hazuma/status/885650109702090753
ついでに言うならシールズの https://www.youtube.com/watch?v=jwiYzpaa30o は精神的な転移や不気味なものなどゲンロン0と同じことを言っている。
https://www.youtube.com/watch?v=Xl6GtoAb_dM のピースサインも、おそらくは平和・勝利・ジョニーは戦場へ行った(モールス信号)を意味していて、これもゲンロン0と同じ。
外山恒一氏もそう。
https://www.youtube.com/watch?v=5Tg5H3fz39M
http://www.warewaredan.com/senso-nihon.html
http://www.warewaredan.com/ideologyx.html
http://www.warewaredan.com/koryo.html
お互いに参照しあって無いだろうから、同時代性があるって事なんだろう。
宗教だとかのコントロールというのは、恐怖というよりむしろ配慮という形で現れることの方が多いんじゃないか。
日本人はよくキリスト教的価値観を批判するけども、日本人がキリスト教を批判した所で反体制というより、むしろ体制的な振る舞いでしか無いだろう。
日本人が批判するならキリスト教より仏教、仏教より儒教、儒教より道教であるべきだが、後ろに行けば行くほど、例えば水のようにありたいとか言ってる爺さんを批判しても、という気になるんじゃないか。
それがつまり文化の枠内にいるという事に違いない。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7452303
皆歴史を知ってて筋肉を知らないというのは妙な話だな。
俺は歴史も知らないんだけどさ。
コンタクトレンズを付けるたびに頭の中でイノセンスとか攻殻機動隊の曲が流れます。
謎のメンヘラ感。
まあしかし自分の絶対的な実力に相当疑問というか、これは妄想なんだろうが世界全体がお膳立てをしてくれているような気がしてならない。
この世界の言語学者がベーシック・イングリッシュなど人口言語をあえて分析しなかったのはなぜなんだろう。
宗教には気づかないような形で理屈が入り込んでいる。
例えばあらゆる物事は調和しているというのがその一つで、「調和」という単語に「良い」という人間的な判断が入り込んでいる。
人間的に言えば悪いことも起こるのが現実で、それも含めると「符合」と呼ぶ方が現実に即している。
全ては調和しているがあなたは調和していないというのは全く馬鹿げた言説で、実の所これこそ理屈が生み出すものだ。
一体俺は一日何回批判しているんだろうか。
子供が笑う位には批判している気がするね。
最初に言っておくとこれは本を読まない人間の弁明なんだが、そして要するに自分の事を語っているんだが、俺は馬鹿の考え休むに似たりとは全く思わない。
というのも考えというのにおいては、身に付ける能力以上に取り外す能力が重要だからだ。
まず身に付ければ身に付けるほど取り外す能力が問われるし、もっと言えば、取り外す能力は身に付ける能力を兼ねてしまう。
人間は無心でいられなければ考えてしまうものだし、自分が身に付けているものを疑って取り外してしまえば、どうせ次の考えが欲しくなる。
技術として難しいのも身に付けるより取り外すこと、洗脳より脱洗脳で、少なくとも読書ではこの能力は身につかない。
上等な考えというのは上等な洗脳みたいなもので、取り外す能力を身につけるという事であれば、初めは馬鹿な考えであれば馬鹿な考えである方が良い。
何か読書のようにその能力を鍛えるメソッドがあれば良いんだが、特に無い以上、馬鹿な考えから初めてどんどんブラッシュアップしていく人間の方が俺は強いと思うね。
どんな考えにも例外は存在する。
例えば徳が高ければ裏切られない、というのも、じゃあ裏切られた人間は全員徳が低かったのかと言えばそうじゃないはずだ。
その例外に対して考えを出した奴は責任を取れないし、取らない。
その意味で人間は結局一人で考えなきゃいけない。
学者に人間として尊敬できる奴がろくにいないんで、読書で他者の精神に触れることが自分の精神を養うことになるとは全然思わないな。
かと言って仕事をするのが精神を養うことになるとも思わない。これも現実が根拠で、まあ創作もそうだ。
ただこいつは良いなと思う奴にそういうものと付き合ってる奴が多いのは幻想なのかあって、俺の考察ではこれは因果関係が逆だ。
幼少期に思いっきり愛されるなどして精神的に養われてる人間は他者の精神に触れたくなる。現実を観察すればこれが実際ではないかと思う。
まあしかし悲しいかな、そんな奴は希なんだね。
例えばルソーは子供を孤児院に入れていて露出狂だ。
本当のルソーがどうかは知らんが、俺の目に映っているルソーが確かに、本当のルソーみたいなものの例外として存在しているわけだ。
俺にはあの世があるという意見は迷信に思えるし、あの世が無いという意見は考察の不足に思える。
転生があるという前提で宿命とか責任とか言う奴がいるかもしれん。
ただ、その考えは西洋の土地では通用しないし、おそらく他にも通用しない土地があるはずだよ。
とにかく俺は何も信じないし、考えというその一点だけで言えば、それが倫理に近い何かであるはずだ。そこら辺はディベートと同じなんだから。
ポストモダン思想を権威みたいに振り回すなんて一体どういう了見なんだか。