エンジンか何かかww
ふう、英語のリスニング、シンプソンズが良いのかな。
少し前の自分は何を偉そうに語っていたんだろう。
そういえば****って今何してるんだろう。10年会ってないと全然違ったりするのかしら。
スピリチュアルの波動が高いとか低いとか、よく分からんよな。
波動が高ければ高いほど、波の存在で水の中は見えなくなる。
宗教においては身体感覚は当てにならないし、論理的にもよく分からないものだ。
化粧ってゲシュタルトだし、ゲシュタルトって権力だ、というのを俺などは感じる。
あとダウンタウンの黒塗りを見ていて、もしかしたら笑いもゲシュタルトにこじつける事ができるのかもしれない、という気がした。笑いが一人前さと結びつくのはだからなのかもしれない。差別とは限らない。
追記:新聞配達の住み込みバイトはすぐ辞めた。あらゆる労働に耐えれる気がしない。
ネット的知性vs人文的知性。ネットバカ一代。人文書を読まなくても圧勝。
不老不死技術ができたら1000歳ほどまで生きたいから、今の70歳は7歳。
追記:LSDやってる奴らからしたら、死んで超越したまま転生しないのが一番なんだってよ。馬鹿げてるな。
追記2:『ネット・バカ』はそう言う割にはつまらねえ本だった。
俺は今でも、俺達社会人というような言説を見ていると、社会と戦争をしているような気になってくる。
線を引くような言説があまりにも多い。
追記:そう書くと、正に人々が自分が所属していると感じている集団の構成員は、暗い部屋などのイメージを思い浮かべるのだろう。
追記2:更に言えば、それに区分されるような他の奴らへの仲間意識は無い。
追記3:俺はこれを道徳の話にする気も、病気の話にする気も無い。俺がそのイメージに属しているかは分からないが、そのイメージはどう考えても敵として思い描かれている。
追記4:”俺達”が広がれば広がるほど良いとは、どうも俺には思えない。何やら世間は自分たちが俺の生殺与奪を握っていると思ってやしないか。彼らのイメージではそうで、現にそうなのかもしれないが、そのイメージにおいて俺に残された選択肢は何なのだろう。
追記5:俺とお前は違って、自分は社会の代表では無い。その当たり前の事を了解して貰えないと、イメージにおいて競合して、俺はこの自分を意図的に妨害する意志を持っていれば敵と見なすから、社会を敵と見なさざるを得なくなる。
追記6:それぞれが独立国家のようなものとして、その上で合意を探るようでなければ困る。
追記7:火炙りすら道徳的だったのだから道徳が機能するとは何なのか俺には分からん。ただもし善など無く、全てが自然状態のまま合理的に動くだけなら、悪などというものがあり得るのだろうか。また悪が一つも無ければ、善というのが成立し得るのか。みたいな事は当然思う。
追記8:ただ何にせよ、我々がサル類である事を前提にしなければ、学問としては足場を失うと俺は考えている。
追記9:ゲシュタルトとしてしか存在しないであろう良しは、それの前提になる可能性として、自然状態というだけで無く、ゲシュタルトとしての悪しを必要とするんじゃないか。あるいは善という言葉に歪みがあるだけなんだろうか。
なんか面白そう
元々はこれを探してたんだが、いろいろあるもんだな。
このサイトを使ってみて分かったのだが、俺のアカウントはゴミだ。
このサイト、カーソル乗せたら何ページか見れるの良いね。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1802/06/news110.html これ読んだ後だったんで「ひろゆき」に見えて、何かの冗談かと思って少しの間調べるなどしていた。
これ良い。非公開リストが作られるのが良い。phaになってる。
テロの可能性ってあるのかな。
<単身者向>募集の入居資格の概要
1 東京都内に3年以上居住している単身者(原則として申込時に同居している親族がいない人)で次のいずれかに該当していること。
人類のこういう迷いに惹かれる。おそらく戦後教育に影響を受けた者として。しかし、人間を人間の世界で直感的に理解しようとしてはいけない。それはおそらく、自分を自分の世界で直感的に理解しようとするのと同じだ。
少し前に夢の中で気付いたのだけど、滅多刺しとか複数回刺すのは、心臓を狙うけど届いたか分からないからなんだよな。現に生きてる事が多いし、殺そうと思ったら複数回刺すのが正解になってしまっている。これって結構良いマメ知識で、相手が包丁を取ったらそれを伝えて説得できるし、自分も包丁を手に取ってもそれで殺そうとは思わなくなる。
発表は論文に限定した方が良いらしい。エッセイのようなものを書くのは自分のためにも社会のためにもならない。発達障害の奴に睨まれて初めてネットで身の危険を感じた。ちょっとした有名人体験だぜ。
まあ、普通の奴に見せても理解する筋合いがあるのかという話になってしまうし、だから個人は無理で、じゃあ社会の、学会と。社会における目みたいなものなのだろう。で二つ作る理由が無いから一つ。それだけの事だ。別に二つ作れば良いというわけでも無いし。まあしかし現代の日本人のリーダーシップの無さには驚いた。端的に臆病なんだろうな。
テキストのコミュニケーションコストっていうのは馬鹿にならない所がある。例えばリファレンスも、経験者が隣にいれば聞けば一発なわけだし。哲学書も、哲学があって哲学書があるというより、本というフォーマットが先にあってその表現として哲学書があるという風に見えてならない。西洋系の哲学者は、日々の悩みも哲学だと言う割に、自分たちが哲学の専売特許を持ってるかのようにも話す。二枚舌も良い所で、どっちかだろと思うけどな。「古の賢者○○曰く〜」とか「賢者○○曰く〜」みたいな事をずっとやってやんの。西洋哲学という事ならソクラテスから見直した方が良いよ、おそらくあいつが親玉だから。現代の哲学における老子やキリストや釈迦みたいな存在だろう。
カントがニュートンの影響というコメントは、なるほどそうかと思ったね。ニーチェとかヴィトゲンシュタインも19世紀特に後半の学問の盛り上がりの影響だろうし、結構文系で高度だと言われてるものって後手のものが多いんだよね。まあもしかしたら俺もそうなのかもしれないけど、俺としては今までの文系学者というより、むしろ理系のニュートンとかアインシュタインとかと同じように見て欲しいと思うけどな。
どうも現実においては、自分には価値が無いですよ、というメッセージを発し続けてしまっているようで、上手くやれない。
vrchatにしても、ああやってノリが良く楽しくやってる奴の近くに行ってはいけないのではないかと思ってしまう。ニコニコも初期にはコメントを書かないことにしていた。今のネットを見ていて思うが、綺麗事でなくその行動には正しさがある。
やる気を重んじるのは評価関数として間違っているとは思う。思うけれども、やる気に関しても俺の感想は同じで、それもやっぱり自分で綺麗事でなく現実として正しいと思うね。
エロ表現についての議論は、あれがもしエロじゃなかったら簡単になる。ただ嫌なことをする表現が良いか悪いか。エロ表現を観察していると、メンバーシップが剥奪されて、遺伝子レベルになる事に、エロを感じているように見える。
LSDをやると、遺伝子レベルやそれ以前に解体されて、場合によってはその遺伝子レベルでの祝福として、エクスタシー(と呼べるようなもの)を感じる事がある、と聞いた事がある。
現代社会においてはメンバーシップの剥奪は肯定的では無く、だから議論は混乱する。議論は混乱しなけりゃ良いだけだが、ここに新しい社会観の手がかりがありはしないか、というのは少し思う。
俺は自分の人生をトリップのようなものと捉える事にした。ニューエイジってLSD体験が大元だろうから、そこから学ぶならそれだけで良いんじゃないか。
※ちなみに全共闘についてのソースは https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E8%AB%96_%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%ABvs.%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%85%A8%E5%85%B1%E9%97%98%E2%80%95%E7%BE%8E%E3%81%A8%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%BD%93%E3%81%A8%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%97%98%E4%BA%89 、LSDについてのソースは https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E6%AD%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3 を使っている。
まあ俺として全面的に肯定するわけでは無いし、読まなくても良いと思う。ソースを出すのが重要らしいから一応書いておく。これっぽっちのソースで言ってたのかよってね。
いやしかし、やっぱり、俺はテレビに向けて話しかけるボケ老人のようなものだったのかもしれん、というかそうだろうやっぱり。
追記:俺はそれを確かめたかった。いつもアクセスが少ない。合理的では無い。他の人がどういう世界を見ているか、心配になる事自体がどこか本質的じゃないに違いない。
http://www.warewaredan.com/senso-nihon.html まるで予言のようだが、実際にはそうじゃない。その人間の現実に巻き込まれただけだ。
http://www.ippongi.com/2011/03/10/real/ 普通に考えれば、ゲシュタルトを発見する批評の実践が、これからの政治であり生き方だという話になる。
最近の俺の言説ではまるでゲシュタルトが根拠なようだが、ではそのゲシュタルトはどこで発見されたのか。フローチャートの目的は発見される。無根拠だ。それのどこが新しいんだろうか?いつも通り、犬が自分の尻尾を追い掛け回しているだけだ。
いつも通りだし、そもそもを言えば、俺の意図が問題になるわけじゃない。
人間には場当たり的に考えることしかできない。何の意味も無い。
俺はここ二週間ほど、これを思いながらあえて言わなかったのだけど、哲学ってどうやら偉いようだよね。俺の存在根拠ってそれじゃないか、結局。
生活でも無いしゲシュタルトでも無い。哲学は何も言わないという大原則を忘れていた。
今や哲学という呼び名にさえ腹が立つ。
俺に存在根拠があるという考えは根本から間違いだ。断じてこんなものを神経症的な何かにしてはいけない。
そして俺はボケた老人みたいにテレビに話しかけていただけなんだろうな。それを分かりたい。
俺はダメ人間だ。これからどうすりゃあいいんだろう。
あえてっていう自分の感覚をどうやって消せば良いんだろう。昔から恥ずかしい事ばかりしてきて、後から振り返って苦しむばかりだった。それを何とかするための、精神的な鎧だったのだと思う。俺個人の問題として直していきたいと思う。
俺は嘘ばかり付いてきて、自分が作り出した壮大な言い訳体系に苦しめられている。嘘がいけないという感覚は保育所の頃に消えた。今振り返れば、いろいろな事が始まったのはその頃だったのかもしれない。でも一つ言わせて貰いたいのだけど、村上春樹も言ってるし、俺のこの体験は嘘では無い。あるいは皆知らないというのが俺の嘘なのか。
こういう時に論理を切断できなければ困る。そしてそれは結局、論理では無いって事なんだろう。
発言権が無くても俺は喋っていく。もしや青年から大人になるとは、こういう事なのか?いや、それを気にするのは本質的じゃないはずだ。
だがベーシックイングリッシュは完成させる。いつか。
宮台真司は死ぬまで世田谷とか言ってそうだが、それも生き方なんだろう。
評価だとか好きだとかが良いとは、俺はこれっぽっちも思わねえよ。誰かの目的に適うから何なんだ。
天才ごっこはやめよう。馬鹿らしいから。
しかし宮台真司氏や内田樹氏などは、投票行動の合理性を判定する視点、という問題を無視している。これを読んでいるかどうかという設定に限らず、それは嘘の一つだろう。
投票行動は全体の視点に立たなければ合理的にはならない。視点を全体に移し、自分をその全体の部分と見なす。これは全体を優先する全体主義というだけで無く、ファシズムだ。
政治主張としては完全に正しいと思うが、しかし修羅だなあ。
趣味の場では排除されて、実家や職場や精神病院では喧嘩になってしまう。
ネットでも何らかのグループと関わったら、グループ対俺という風になってしまうし。
よくサイコパスだと言われるけど、絶対サイコパスだったらもっと上手くやるよな。
喧嘩は別に怒ろうと思って怒ってるから良い。ネットでのグループとも、ぷよぷよは若い頃の過ちだったけれども、他はやろうと思ってやってるから俺にとっては別に良い。
問題は趣味の場で気まずくなる事で、まあクラブはlainみたいなフライヤーに惹かれて行ったけど最初から無理があって(耳鼻科に行ったがヤブ医者だったらしく今でも耳の聞こえが悪い)、ボードゲームクラブは何となくの判断が致命的に苦手でもう来ないで欲しいみたいな空気を出されて、ぷよぷよ対戦会は初回に言い出しっぺなのに行くのをやめて三回目ぐらいに行ったら居留守されて(加えて別の住所を知らされるなどして)、哲学カフェはLINEで言語理論を見せて後ははてなでのやり取りみたいになってそれから何回か開かれたがfacebookに書き込むようになってから開かれない。あとボルダリングは想像していたのと違ってハードだった。シェアハウスではやんわりと排除された。
料理クラブは写真を見るからに老人ばかりで、地元には田舎なのにあるいは田舎だからワークショップらしきものも無いし。今はウクレレと卓球を狙ってるけど。
そもそも俺は暇だけど無趣味というわけじゃないのよね。ぷよぷよも哲学も簡単な料理も立派な趣味で、問題はそれでも時間が潰れない事と、コミュニティーに参加できなくて孤独で友人も彼女もできない事。(他の特に実家住みニートはそこの所どうしてんだろう、金も無いのに。あと社会人も、大学で友達作れなかったら、趣味経由で彼女を作るのはハードだろうな。週一回ぐらいの習い事で、個人でなくグループで、参加者に女や女友達がいるような男がいる。普通の趣味じゃないし、そうすると下心って感じで行きにくい。今の世間は男の下心に厳しすぎる)
あのマレーシア人二人は、俺の中では普通に知り合いなんだけどな。そういうのを増やせば良いと思うのだけど。
シェアハウスは宮台真司やphaや他が失敗だったと言ってるし、本当に仕事が無くなったらどうなるんだろうな。フローチャート的でなく集合論的な学校が盛んになるか、明治時代みたいにもっと気楽に訪問し合ったりか、西洋みたいにパーティーとかパブとか後お茶会か、後はvrchat?
暇人の絶対数が増えれば絶対にどうにかなるはずなんだが。しかし東洋人は俺も含めて臆病だから、西洋的なパーティーだとかパブだとかが普及するかって疑問なんだよな(それとも大麻とか吸うんだろうか)。自動運転車が増えれば子どもたちが公園に集まるはずだから、そこで何かが起きたりするんじゃないかとも思ったりするけど。
そもそも子供は盛んに訪問しあってるわけだから、それが大人で途切れるのが無くなるだけなのかもしれないけど。
追記:まあしかし普通はネット友達ができたりすんのかな。だとしたらツイートのジャンルを絞らないのと、MMORPGが好きじゃないのとFPSでクラン戦をしないのが原因という事になる。しかし知り合いが少ないと早死するって理不尽な設計だよなあ。
追記2:映像では賛成されてるようでありながら、どこかで脳の疲れが上乗せされてるような感覚の中で、しかしジワジワと、ストレスでなるべく喉に違和感が出ないようなペースで、ベーシックイングリッシュの研究は進めている。今日も合計45分やった。昨日と今日はシンプソンズを見なかった、それが心残りではある。何分か読書して寝る。
追記3:シャットダウンしようとしたら、そこん所の文字が出ねえ。入れなおす必要があるのか。俺はベーシックイングリッシュ研究をやり遂げる。8月からだからもうすぐ半年だ。
追記4:卓球はやはり老人が多く、良いサークルが見つからない。VRでもできるそうだから、いつかそれでやれば良いか。ウクレレは会費が高いから、やるなら働く必要がある。しかしなぜ世間は、俺が単純労働をするのが損失だと、集合的無意識的に分かってないのだろう。
追記5:集合的無意識など、超自然的なもので通信する機能は、どうやら確かに人間にはある。それが精神性の正体だ。しかもその集合的無意識は、戦争が繰り返される歴史を見れば明らかだが、時間や空間をさして超えない。にも関わらず人々は超えると錯覚し、また超えないと理解しても逆らうことができない。質が悪い。
128: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/09/27 03:06:25 ID:XOJMYayv0
求人雑誌を買う
エア電話する
エア面接する
エア採用にてエアバイトする
エア職場でエア孤独になりエア精神病む
無理
130: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/09/27 03:07:06 ID:Bp4uKL5n0
>>128
最後のもエアなら問題ねーじゃねーかw
— 『ニートってマジでいつも何してんの?暴露しあおう』
俺が考えているような状況が起こるには、俺を観察するネットワークが必要になる。典型的な統合失調症の妄想だ。
これは、しかしいつかは読まれると思うので書くのだが、俺は完全に誰にも知られておらず、東浩紀だとかも俺の事を知らないらしい。
実験と思って実名でいろいろ書いてたけど、精神的になかなか厳しいな(笑)
ゲシュタルトに向き合わないとな。匿名実名そこで何を書くかにしろ、女にしろ、2ちゃん右翼みたいな心象にしろ。
人間はただ自分でありたがるなんて事はあり得ない。宇宙でたった一人でそれが最高だなんて事はあり得ない事だ。
矢印として思い描かれるものは、実際には矢印ではない。目的が発見され、それからバラバラなものが一つにまとまる。前提が、論理的な「前提」として認識される。
俺は誰にも知られていないし、俺は俺の世界を選んできたのではないか。
皆が知らないというのが俺の嘘なのではないか。
事実として、俺はゲシュタルトで、他者もゲシュタルトだ。しかし一方で、そのゲシュタルトである他者は、一つのゲシュタルトとして存在するのか。
同じ前提から、見方次第で無限に結果が弾き出されるなら、フローチャートの前提と結果にも、集合論の集合と要素のような、非対称性?とでも呼べるようなものがあるんじゃないか。集合は要素を無限に含み得る、なぜなら要素と呼ばれるようなものは結局の所、集合論では無いものの事だからだ。
嘘とは何なのか。集合論やフローチャートにおいて矛盾するものが嘘なのか。
嘘とは何なのか分からん。ただ演繹的な思考とは、迷信だったのではないか。だとすれば今起こっているフェイクニュースの問題は、論理的な問題だと言えるのではないか。
自分の認識と食い違えば嘘になる。現実があるとして、現実と食い違っても嘘になる。
嘘は(現代においては)人間の行為なので、現実についての嘘にしても、まず認識がある。アウトサイダーライト達は、自分の都合のために、あえて現実を認識しない。それで嘘を付くことを回避している。それがインサイダーレフト達が批判する(すべきだろう)反知性主義(なんのこっちゃ)だ。
大体に「本を読め」というのは多分に「説教を聞け」なのだ。「○○さん、本を読むといろいろな事を学べますよ。」と老人に言えや。んでもって人文書における思想は間も無く破壊される。存在根拠が無くなる。
在ったというのは論理だ。自分の中でその論理は(自己都合であれ)食い違わない方が良い。嘘を付かない方が良いのは精神衛生上当たり前の事として、問題はゲシュタルトが、常に自分の認識と食い違い続ける事だ。
現実は存在するのだろうか。というより俺達が想定する「現実」とは、多くは社会的なものなのではないか。その社会的な現実があったとして、なぜそれを認識しなければならないのだろうか。
俺はアウシュビッツを思い浮かべている。なぜそれを認識しなければならないのだろうか。「現実」からアウシュビッツ、歴史的な戦争などを引き算していって、残ったものは「現実」と話されるニュアンスを持ったものなのか。
もし誰一人アイデンティティを持たない時に、このような問題が持ち上がってくるのか。
可能性を感じた上で、わざと見ないようにして可能性が無いものとするならば、少なくともその可能性があるという認識には嘘を付いている事になる。
ただ一方で、それはあらゆるゲシュタルトにも言えることなのではないか。例えば誰かが事故で醜くなったとする。にも関わらず関係を続けるとする。その時人間は、確かに何かに嘘をついてはいないか。それなら最初からその顔で良かったではないか。それがあらゆるゲシュタルトであり、しかもそれは嘘なのではないか。
汚点を隠し、目をつぶり、それが守りたい約束、お約束という面白みにすらなる。
まあ、無かった事は有った事にはならないしすべきでも無いけども、有った事は無かった事になるんだよね。我々がサル類であるというバイアスは、否定すべきでは無いし、忘れるべきでも無いと俺は思うね。
なぜ歴史認識が必要なのかから見直したほうが良いんじゃないか。客観的には、歴史認識は争いを減らさず、むしろ増やしている。アウシュビッツはあまりにもパターンだ、そういう問題で思い描かれる数少ない数種類の内の一つだ。視野を広げれば隠蔽されたものなんていくらでもあるし、今も隠蔽されています。
こういう時の「現実」とは、集合的無意識において神経症的に存在している何かなのかもしれない。いや馬鹿みたいに少ない数種類を引き算すれば、現実は現実だ。ただゲシュタルトを肯定しようと始めたのに、なぜこんなにも骨が折れるのか。
サル類であるというバイアス、一度に持てるゲシュタルトが一つであるというバイアス、集合的無意識の存在によるバイアス。他にも出てくるんだろうが、今は良い感じに三点セットだ。
女もサル類であるという事を忘れてはいけない。愛国の肯定にしても、女にしても、人間社会にしても、そんなに甘っちょろいものでは無いのだろう。匿名実名そこで何を書くか、というのが問題になるのも、そもそも余計な事を書いたら死ぬからだったのである。
哲学っていうのは本当はもっと工学的に語られるべきものなのかもしれない。
目や耳や触覚はセンサーで、入力を電気信号に変換するわけだけど、変換できるという事は何らかの共通点があるという事で、俺の考えでは、その共通点は集合論とフローチャートなんだよね。(http://otoimi.net/ この理論は、空間や日本語を、集合論とフローチャートと意図によって表している。厳密には、広義の空間には、複数の地点や存在を同期する基準のようなものが必要。あと狭義の、人間が認識するようなユークリッド空間では、角度の情報が全地点において共有されなければならないのではないか、と俺は考えている。例えばA地点からある角度でB地点に10進んで、更にB地点からある角度でC地点に10進んだ時、A地点とC地点がある角度でどれくらい離れてるかハッキリしなければ、俺達が考えているような空間では無い。だとしたらA地点とB地点、B地点とC地点のみならず、A地点とC地点でも角度の情報が共有されてなければならない。とにかく人間の直感抜きでユークリッド幾何学の自動証明をやるには、角度をどう集合論とフローチャートで定式化するかがキーになると見ている。線はある方向における存在、円はある距離における存在、点はその両方。)
一つ前のは認識をあまりに人間的に捉えているけれども、空間や時間の中で存在している現実と、人間の感覚の間に共通性があると考えれば、センサーだとかと合わせて、もっと一般的に認識や現実というものを考える事ができるのかもしれない。なんか哲学の最新動向とか読んでて思った。
ちなみにhttp://2016-4-14.blogspot.jp/2016/06/blog-post_29.htmlは、整理としては良いと思うけど、『数学の原理論』とはやっぱり言いがたい。今は集合論とフローチャートと意図で整理できると考えている。デカルト座標は、玉ねぎ状の集合を伸ばして縦と横で重ねて、その縦×横の集合をフローチャートで移動できるようにしたもの、と考えることができるんじゃないかと思ってる。フローチャートにそういう集合を見出したものでも良い。
数学を論理、つまり集合論とフローチャートに置き換える作業で、難しいのはやはり幾何学だと思ってる。結び目理論(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E3%81%B3%E7%9B%AE%E7%90%86%E8%AB%96)は、結び目をネットワークのノードと見なせば、巡回の問題と解釈できるんじゃないかと思ってる。巡回した最初がA、次がB、次がA、B、A、Bと続いていくとして、二周して全てのノードにAとBを揃える問題だと解釈する事ができるんじゃないか。クラスタを作ってそこに入ったら、そのクラスタを出ないと他に行くことができない。
トポロジー(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8D%E7%9B%B8%E5%B9%BE%E4%BD%95%E5%AD%A6)は、筒状の部分はどこまでも細くできるし、球状の部分はどこまでも小さくできるから、ネットワークのようなものとして解釈できると思ってる。球の中に球が含まれている場合は、どうせ外には出れないのだから集合論的に含まれていると考えれば良い。クラインの壺(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%BA)も、ネットワークのエッジの一方がもう一方に集合論的に含まれてるみたいに考えれば良いんじゃないか。まあ適当だけど、そういう風にモデル化して、コンピューター演算できるんじゃないか、って話だな。
植物にとっての数学、とか厨二っぽく呼んでたけど、まあどうでも良いやな。地球上には動物より植物の方が多いわけで(多分)、植物にも適用できないと数学は普遍学とは言えないんじゃないか、みたいな話だな。
追記:線、円、点について追記した。
案の定、25になった辺りから、30までまともに生きてる気がしない。何人か同じ事を言ってたけど、戦争があったら前線に行くような年頃、という事なんだろうな。
これが統合失調症だったら脳が萎縮しているはずで、放置してるから30まで正気を保っているかどうか。まあベーシックイングリッシュの理論は絶対に完成するだろう、結構な所まで来てるから。
女でも男性ホルモンを打てば男になるし、男でも女性ホルモンを打てば女になる。性質だけなら生まれつきどちらが出るようになってるかだけだ。
ちなみに生まれつきアッパー系の脳内物質が出たらクラスカースト上位になって、ダウナー系が出たらカースト下位になる。
追記:フェミニストを批判しているわけでは無い。
追記2:よく分からないけど、metooは基本的には良い運動だと思う。tumblrは後世に向けて書いているわけじゃないから書くけど。俺個人だってネットを使いたい。
最近よく分かってきたんだけど、世の中はほとんど、俺の事を知らないらしい。
子供時代以外を家で過ごして気付かなかったが、世界っていうのはなかなかユニークにできているらしい。
追記:人生は幻覚剤のトリップのようなものなのかもしれない。やったことは無いけど。そういう世界観を持つことにした。
追記2:東浩紀などが俺に返事をしているように見えたから、知る人ぞ知るという感じで、何らかの形で知られているのだと思っていた。でも合理的に考えたら、そんな事はあり得ない事だ。まずアクセス数が少なすぎる。そんな事をする意味は無いし、そこまでの統制もまず取れない。自分の認識が自分にとっての現実の流れを作る、まるで幻覚剤のトリップのように。世間がそれを知らないというのも、俺の今の認識に過ぎない。
追記3:幻覚剤を使う気は、少なくとも今の所は無い。俺のコンディションが悪すぎる。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AF%E3%82%BF%E3%83%8D%E3%83%9B%E8%A8%88%E7%94%BB)
追記4:俺を好んで観察するネットワークがあり、そのネットワークから俺に関係がありそうな人に働きかけて一つにまとまらないと、このアクセス数は無理だ。つまり無理だ。
追記5:人間は、いや俺は、一度に一つしかゲシュタルトを持てない。錯覚の画像でも、あるゲシュタルトを見たら、それに引っ張られて他のゲシュタルトは分からなくなる。他の人がどういう世界を見ているか気にするのは、馬鹿げたことなのかもしれない。ある社会(というゲシュタルト)において評価されたものが、また違う社会では違う風に評価される。俺というゲシュタルトはそういう社会や他者というゲシュタルトに引っ張られる。超越している奴がいるからといって、何なのだろうか。サル類として、そいつと俺というだけでなく、そいつと俺と社会を想定し、その社会というゲシュタルトを通して、俺の価値が毀損されるように感じる。しかし本来的には、世界には無数のゲシュタルトがある。
一石二鳥は良い。何より自分を説得する材料になる。一時の気の迷いで一つが揺らいでも、もう一つが支えてくれる。二次方程式だ。
誰かにとって、誰かがいなくてはならないなんて事はない。いやそういう場合はあるが、サル類として、親は例外として、まずいなくなった方が良いものとして思い描かれる。その親にしても、感情的な意味では、本当はいなくても良い。他の誰かにとっての自分も例外では無い。それを学ぶことこそが、他の誰かから何かを学ぶより、深い学びという事になるのではないか。しかし彼も俺の事を知らない。誰も知らない。
昔、ベーシックイングリッシュ論を公開しようとした時、偶然その時研究していた聖書を開いたら、公開するなというような事が書いてあったんだよね。
チョムスキーのfacebookのコメントにリンクを貼って、ちょっとはアクセスがあったんだが、公開したり非公開にしたり、まるで神秘的な東洋人みたいに振る舞うことになってしまった。今でも黒歴史として思い出す。
君はキリストだ、いや実は悪魔だ、云々かんぬん、まるでクトゥルフのようだった。なるほど統合失調症者やテロリストがなぜああいう振る舞いをするのか分かった。偶然聖書を開いて、それを神の言葉として根拠にするという行動規範は、少し悪くすればああいう事故に繋がる。これが異国の人間の見解である。
追記:ニューエイジは西洋の出来事だ。ニューエイジャーにとっての東洋思想は、キリスト教を相対化する道具に過ぎない。日本人としてそれに飛びつくなんていうのはお笑いだ。個人として見れば、西洋思想、東洋思想、俺、それぞれなんぼのもんか、今よりはまだ、ハッキリ分かるってもんだ。
追記2:論理と脳神経それ自体みたいなものが結びついた時に、いろいろなものを巻き込みだす。仏教も、ユダヤ教系宗教も、日本の神道つまり道教も、論理の部分は、論理構造である以上は論破可能だ。論理の部分を失えば、あなたもそうだという事が言えなくなって、強制力を失う。文化はともかく、論理の部分はなあなあにすべきでは無い。
追記3:地獄の絵にはいつも人間しか描かれないが、あいつらは一体何を見ていたのだろうね?そしてそのような地獄の絵を描くという行為は、悪ですら無い。愚かですら無い。必然だ。解釈の道具は置いておいた。
追記4:俺は文系のアインシュタインだ。それを聞いて現代の奴らは傲慢だと思うんだろうが、違う、これはむしろ謙虚さなんだ。
追記5:そして俺は確信を深めつつあるのだが、やはり俺は誰にも知られていないらしい。
どうも俺の振る舞いには、日本の歪んだ平等思想から結果的に展開される、破戒僧の伝統があるように思えてならない。
何何仕草なんて下らねえぜというのすら、日本仕草に過ぎないなら、俺はどうすれば良いのか。
客観的に、人間が何かを強く攻撃する時には、そこには何らかの正しいがある。俺の場合は、日本の中国に対する立場的な平等思想と、現代において凡俗な理性信仰だろう。あと若干アメリカの軽薄さ。
そして地下鉄サリン事件についての、幼少期のテレビによる刷り込み(更にはジブリによるビデオによる刷り込み)。どうすべきかなんてものは無い。世界は幻覚剤を入れた者同士の呼応のようなものなんだろう。
追記:集合的無意識という事であれば、加賀の家来であった富山と、立山信仰の影響を感じる。いつかケリを付ける(いやあるいは元オウム信者のように、ただ逃げるべきか)。全く俺は何年前の世界にいるんだか。別に時代なんてものを信じちゃいねえがな。場所はそこまで超えねえし、だから時間もそこまで超えて学習するとは限らない。学習というのも、何が根拠なのか分からないし。人間はいつかは滅びる。
追記2:未来から過去を見た時はダサさとして鼻につくが、過去から若者を見ても鼻につくものはある。時代を超えれば鼻につく、それだけだ。
追記3:ゆとり教育と戦後教育の自己否定。両親。2ちゃんねる(俺にとってのネット)、ニコニコ動画。twitterにいた思想系の奴らを中心に、いろいろ20ほど上の奴ら。そしてその誰も俺を知らない。
追記4:隠蔽された愛国心が確かにある。そして直感に反して、女も人間も愛国心も、自分も綺麗事じゃねえ。
追記5:日本の左翼にとっての善人とは、戦後教育仕草をする奴の事だよ。このように、あらゆる文化は嘘を付く。
追記6:いつの時代も、良い女のイメージと良い人のイメージは同じ所にあった。
追記7:昔のアイドルを見ると、まるでその裏の肉が見えるかのように思える。逆も言えるだろう。ちょうど俺には今のジェネレーションZの特に素人は普通に見える。それもまたそういうものだろう。自分の世代とそれを踏まえた少し下は普通に見える。
追記8:世代なんて県民性ぐらいのものだよな。
追記9:誰も俺のことなど知らないのだ。それは客観的に分かったはず。深く理解しなければ。
追記10:あのアクセス数を見たはずだ、そして深く考えて理解したはずだ。やったねたえちゃん!じゃないんだ。現実と向き合わなければ。
誰も俺のことなんて知らないんだ。
みんな今「コミュニティづくり」に躍起になってるんだけど本当に必要なのはコミュニティをつくることではなくて、その場を使って「文化をつくる」こと。
だから「どんなコミュニティをつくりたいか」と考えちゃダメで「どんな文化をつくりたいか」から逆算してコミュニティを設計したほうがいい。
— https://twitter.com/Quishin/status/963299582661677057
自分でセカンド理論を考えてネットに書いた頃から、皆一気にセカンドが上手くなったような気がした。人生は幻覚剤のトリップである。認識凄い。
人間に集合的無意識があって、その中の原理で幸せになったり不幸になったりするなら、俺は不幸で良いよ。
更に離れて不幸ですら無くなればそれがベスト。幸福であるより本質的である方が俺にとっては重要だ。
追記:本当に誰も、俺のことを知らないんだなあ。
追記2:信じられない。しかし、そうだろう。そんなネットワークなど無い。そうじゃないと言うなら今回だけここ(http://otoimi.net/)にアクセスして欲しい。絶対に造反者は出る。しかしアクセスは増えない。つまり、誰も俺の事を知らない。
追記3:東浩紀も知らない。岩崎夏海も知らない。外山恒一に挨拶して「えっ誰だっけ」みたいな反応でもしやと思ったが、本当に誰も、俺の事を知らないのだ。
誰も・俺の事を・知らない。
わあ!誰も俺の事を知らない!誰も!
わーい!わーい!
なるほど、これで俺は直ったわけだ。しかし、本当に、狂気というのは分からんものだ。狂うというのは文学的ではない。むしろ直って、狂っていたのだ、と直面する方が、主観的には、文学的だ。
誰も俺の事を知らないんだ。
テスト。
追記:なるほど、こうなるのか。
誰も見ていない。
誰も俺の事を、知らないんだなあ。
みつを
追記:相田みつをの作風って若い頃から同じで、で若い奴があれを書いてるわけだから、ずっと馬鹿にされてたんだよね、今調べたら30だったけど。でちょっと知られるのが死ぬ17年前の50、人間だものが死ぬ7年前の60。それで死んでからもこうやって馬鹿にされてるんだもんなあ。
追記2:実は無為というのは多数派なんだね。難しいのだろうけど。いや誰も批判してないし、そうか誰にも伝わっていない。アクセス数が真実を教えてくれる、確かにどうやったって造反者は出るのだ。
誰も!俺のことを!知らない!
誰も俺のことを知らないんだ。虚しくなってきた。
追記:本当に誰も俺のことを知らないんだ。本当に。
誰も知ら〜ない〜
うるせえ!俺を知らないくせに意見するんじゃねえ!
このすったもんだとかも、本当に誰も見てないんだ。
うにょー、とか、うわー、とか、頭の中で喋ってる。オタクが。誰にも知られてないのに。
ちゃうやん、それはちゃうやん世間、って富山県人なのに。
誰も俺の事を知らないくせにー!
誰も見ていない。それは客観的事実として分かった。
俺は、小学1年と2年の中頃までが一番幸福だった。
その頃はちょうど、いじめっ子がいなかった。いや中学の頃もいなかったが。
中学の頃はネットにハマって、あと授業がつまらないというのもあって、睡眠リズムは崩れていた。いつも4時ぐらいまで起きて、授業中に寝ていた。客観的にはだから不幸だったんだろう。
斜め向かいの友達と一つ上の友達でよくゲームをしていた。一つ上の友達はホストになったらしい。
まあでも、5年とか6年までその三人と遊んだし、どちらかと言えばストレスが無かった頃なんだと思うな。
保育所の頃は周りが怖くて、引っ越してからはそこのルールに慣れなくて(これは多分)いじめで、小学2年の中頃からは転校生のいじめで、更に小学4年から6年は加えて野球クラブで、高校1年の頃はいじめできつかった。中学の頃は退屈で、自殺を考えていたから幸福では無かったと思う。2009年からニートになって2015年ぐらいまでも自殺を考えていたから幸福では無かったと思う。
2015年にベーシックイングリッシュの理論が完成してからは、俺は自分の中では天才だし、もしかしたらいつか認められるかもしれないから、宝くじみたいに希望になっていて、自殺はあまり考えていないと思う。
いやはや、自分を憐れむわけでは無いが、客観的に俺は不幸な人生を送ってきたな。いや本当にそうだな、これは。今が人生で二番目に幸福だという事になるのだな。いや保育所以前を考えると三番目なのかな。
まあこんなもの誰が読むんだって感じだがな。読んでいる奴など誰もいない。俺は妄想で知人を作って話しかけているのだ。
追記:俺はこんなにも不幸だったのか。自分で気付かなかった。
追記2:俺は変な奴だったのだろう。地元の保育所に引っ越してすぐの、あれは暴力が記憶に残っていて、しかし本当にそうだったか確信は無いが、小学に入ってからは凄く優しくしてくれた。たしか小学二年の頃からの転校生(片親だった)には、その頃太ってたから6年までデブだと言われ続けたけど、中学で痩せてからは普通に話すなどしていた。いじめという意味では、高校1年のが一番陰湿だった。直接名前を出さずに悪口を言い続ける。まあしかしこうなってみると、あれはもしやすると妄想だったのかもしれんな。とてもそうとは思えんが。一生通して退屈だったりやる気が出なかったりしたのは、そういうストレスのせいなのかもしれん。後の期間は自殺を考えていたから、まあ小学1年から2年の中頃までは輝かしい記憶なんだが、実は消去法なのかもしれんな。
追記3:いやそういえば最初の保育所ではいじめられてはいなかったか?まあでも保育所というのは基本的に恐ろしい場所に思えたな俺には。今で説明すると保育園児並の知能しか無い大人の中でやっていくような、しかもそこに社会みたいなものがあって。なんで子供ってそれが平気なんだろう。というか人間は自分の持っている生物的なたくましさに無自覚だよなあ。日本人でも社会人とか、戦士みたいな事を言うよね。
俺は発達障害の奴と関わる事が多いんだが、まああいつらは良いコミュニティーメンバーでは無いわな。目も合わせないし、表情も全部出るし。俺も大なり小なりそうなんだろう。
まあしかしそういう人間にも一生はあるわけで、手帳持ってると何割だったか働いてない奴が多いそうだけど、それを基準に人生を組み立てれば良いのかもしれん。
人間とはあの保育所にいた奴らが育ったものだとすれば、別に生きるのが正解というわけでもないという気がしてくる。生物なんだよな。それで歴史というものが、今投票についての意見が相手にされないのも含めて、一瞬だけふっと、よく分かった気がした。
世の中には、実はゲシュタルトが溢れ返り過ぎているのかもしれないと、Twitterを見ながら思った。
自分たちがサル類である事を忘れさせるような表現は不健全なのではないか。歴史の実相と人間の自認つまり日々のゲシュタルトが一致しなければ、人間社会は言うなればナルシストの鏡だ。
なぜ人間は生物だというのが悪口のように響くのか。意味が分からないぞ。
哲学を文学みたいに研究してる奴って頭おかしいよな。
精子って一発一億匹なのに。そういう奴は運命論者とかなんじゃないか。
いや俺はいつだって可能性の話をしているだけだしね。アクセス数は灰色って感じだな。
追記:見てない8って感じだな。
人類社会が自己肯定のために考えるほど悪い世界じゃないが(虫の人口密度は意外に低いし、肉食もそれを保持できるぐらいしかいない)、別に良い世界でも無い。
どうせ人間、死ぬ時は超越する。超越と言っても、それをどういう意識で迎えるかという話で。
明晰な意識でというイメージだけど、この世界において明晰な意識で超越するのがそんなにも良いことなのかね。別に混濁してても良いんでなかろうか。
追記:そうすると転生は嫌という話になってくるんだろうがな、少なくとも最初の頃とは根拠が変わってるんだよな。
「ンゴ」がつく単語が「りんご」しか存在しないという事実
1 :名無し:2018/02/11(日)16:26:53 ID:vMo(主)
意外…意外じゃない?
7 :名無し :2018/02/11(日)16:27:45 ID:lha
スレタイだけで矛盾してるの草
— https://twitter.com/jbot91215988/status/963733115158999050
鈴木氏:
それには教養が必要ですよ。教養というのは、広い意味での教養ね。
同じものを見て「面白い」と思う人と、「面白くない」と思う人がいるでしょ? それはたいがいね、つまらなそうにしている方には教養がないんだもの。
勉強不足なんですよ。いろいろな物を読んで、いろいろ見聞して、「何が面白いものなのか」というのをね、やっぱり自分なりに勉強しなきゃ。
— http://news.denfaminicogamer.jp/interview/180215/3
アクセスが2増えた程度だった。tumblrからは1。
普通に考えればだが、俺は見られていない。
追記:2から4になった程度。実質的に着目すべきはtumblrからの1。俺では?仕様的にそうでなくても、誰かが偶然見た、誤差と見なすべしだ。いや俺では?
日本語理論など、学会誌経由で自分の理論を世に出す。
社会を信じれば、つまり他の社会人が考えるような仕事という事であれば、俺がやるべき事はそれ以外には無い。
ソクラテスなんていう一芸に秀でたプラトンの人形と一緒にするんじゃねえや。どいつもこいつも謙虚謙虚。プラトンにとってのソクラテスも謙虚のための道具だ。
謙虚って事で言えば、自分は謙虚で周りも同じ評価を下す、自分は謙虚だが周りが崇めてくる、自分は謙虚じゃないし周りも崇めてくる、自分は謙虚じゃないが周りは低い評価を下す、の4通りが想定されるわけだ。これらの状況をどういう順番で評価するかはそれぞれの勝手だが、俺は最低はどう考えても2番目だと思うね。
人間には生存上の都合で、自分と、自分が属する社会と、その社会に属する他を肯定するバイアスがあるから、考えるという事なら信じるより疑う方が上等で、疑うよりただ知である方が上等だと思うね。
集合的無意識があって、しかも場所も時間もさして超えないというのは、これは恐ろしい事ですよ。なかなか凄みのある生物的なギミックだ。人間はただの自然現象の結果を「運」と呼ばない。自分や構成員の他者の行動の結果だけを「運」と呼ぶ。
「勉強」なんて言葉、無くなれば良いのに。
ニュースピークだっけか?もう憶えてないけど。そういう抱き合わせみたいな言葉が多すぎるんだよね。
一度普及したら変える事ができないというのは、仕方がないのかもしれないけど、結構重大な欠陥だよな。
まあ、それはともかく、これからの勉強は必要性というよりは楽しむためのものになるのかもしれない。西洋貴族もエスプリが大事だったとか何だとかだし、東洋の友人関係にしても学校とか私塾繋がりなのだろうし(適当。まあ違うだろうな)。
俺はvrchatに期待だけどね(あとウクレレ)。趣味つったって、この場合はメインは人間関係なわけでしょう?インドア派の趣味って、ネットの発達でどんどん言い訳に使えなくなってきてるんだな。
写真が良い。
著者と会話するみたいな話で、確かに過去の人間が俺に話しかけてきているように思えるし、数字を見る限りではおそらく現代でもそれが起きているだけ。
しかし妙だよなあ。その事について話し合える仲間がいれば良かったんだが。
そういう思想家を適当に見つけて、その名前で探せば良いのかな。クリエイターはそういう話をしている事が多いんだよなあ。
まあ精神のレベルで起きている事だろうから、小さい頃からだったら自然に精神に関わっていこうとする、そして表現においては武器になるから方法論化されていく、みたいな事なんだろうが。
現代の政治は大きな視点(一般意志)を上に作るという発想なわけだけど、国連的な、ルールへの合意というだけで良いんではないかと俺は思うね。
二大政党制の発想で争っている人たちは、自分たちが変なものを信じている結果そういう振る舞いをしている事を、もう少し分かったほうが良い。
異なる目的を持つAI同士でも、所有つまり最終的な使用権、そして交換つまり合意の元でのそれの移動、この二つがあれば、それぞれにとっての交換の最適化によって相場は生まれるし、だから貨幣も生まれる。
経済が使用権への合意という事なら、経済と政治を同一原理で考える事もできるんじゃないかと思うんだよな。そういう考え方もあって良いんじゃないか。
それぞれに目的は違うし、視点の統一も不可能。使用権への合意と、ルール(動きにおける同一性)への合意というだけで良いのではないか。
追記:全体のルールは想定できても、全体性それ自体みたいなものはもはや想定できないだろう。まあ現代に生きてる人間には酷かもしれないけど、まずは諦めることだろうな。それで全体の視点を持たないならば投票にも行かない。
https://twitter.com/_satoketa/status/964821413629579264
https://twitter.com/_satoketa/status/964826707839434752
https://twitter.com/_satoketa/status/964827711850950656
俺がクリエイターに嫉妬している事については、そうなんだけどね。
まあでも世界のゲシュタルトは一つではないし、客観的な優劣みたいなものはあるのかもしれないけど、それはプレイヤーの中でやるのが一番なんじゃないかというのが、俺の正直な感想だな。分かる人には分かるのだろうし、後はそれをスポーツ選手がやっているみたいに語り継いでいけば良いだけなのではないか。
批評という事なら一つのゲシュタルトを強化するのでは無く、もっと色々適当に発見していく方が、面白いし自由だし豊かだと思うんだよな。
この童貞から言わせれば、化粧っていうのは女性を抑圧する権力というよりは、いやそれもあるのかもしれないけど、それ以上に童貞を抑圧する権力という方が大きいと思うんだよな。
どう考えても女はキモオタ童貞とかに対して強く出てるんだよね。でそれがなぜかを考えると、これはゲシュタルトが権力として機能してるからだと思うんだよな。ベトナム戦争だとかを出すと古臭いのかもしれないけど。
そもそもクリエイターって仕事に繋がってないだけでもう既に偉い気がするんだけども。偉さをいかに生活に繋げるかという方が問題意識としては正しいのではないか。
https://twitter.com/asarin/status/964997211896496128
https://twitter.com/marxindo/status/964998206252724229
複数のリンクを投稿する事はできないのか。
まあ、結局歴史は一つでは無いし、現状が正解というわけでも無い。ほとんどの思想は世には出ていない。今までは見えなかっただけで。
サル類で、ゲシュタルトは同時に一つしか持てず、集合的無意識にも影響を受ける。その中で何とかやっていくしかない。
追記:今が正解なはずだと考えるから認知的不協和に苦しむことになる。だから新しいから正しいという事も無いし、古いから正しいという事も無い、最初からそんなものは無い。
追記2:結果だから正しいvs前提だから正しい、なわけだけど、論理それ自体は何も言わないし、その核になっている論理が他を巻き込む強制力になっていると思うのだよね。社会が正しいわけでも無いし、その社会が認めている学会が正しいわけでも無い。当たり前なんだけどね、歴史を振り返れば、人間は内容に関係無く先人をリスペクトしてきたのだから。
無料の漫画サイトが問題になってるようだけど、俺はニートだし、エロ漫画に関しては無い物は無いというか、倫理観のために一枚絵しか使わないって変人だと思うし、民営のジャスラック的なサービスを作るのが社会にとっては一番良いんではないかな、と。
俺は倫理のために一枚絵でしか抜かないんですって、ニートは皆そうなると思うけど、そりゃおかしいだろ。解決策があるんだからそれをやってくれれば良いんだよ。
追記:皆が道徳を守る社会って、考えてみると凄く気持ち悪いよな。今回も発話者にとっての最終的なゴールは、金が無い場合は破った上で申し訳なさそうにする、でしか無いわけ。そうじゃなければ上の社会が実現してしまうから。
追記2:今回はその手の発言をした人全員に言ってると解釈してもらって構わない。
追記3:つい時事ネタを書いてしまった。
この他の人のタイムラインを見れるアプリ http://www.appbank.net/2016/06/05/iphone-application/1210137.php 便利だけど、他の人に切り替える時に再インストールしなきゃいけないのがクソ面倒くさい。なぜかappstoreで見つからなかったり、このアプリのホームページから飛べなかったりするし。再起動も電源切ってまた付けるだけじゃだめなんだな。作成される非公開リストは上書きされないみたいだ。
ま、夢日記でも書いてくかな。
俺はまだ、スピリチュアル系に刷り込まれた精神性という考え方を抜け出していない所があるんだよな。
理屈の上では精神性は時間や場所が違えば全然違うと分かってるんだが。
サル類としては、アドバイスは上から下に限定で、ならばアドバイスの目的は何なのか分からなくなるぐらいだが、あえて言えば、精神性の話は東浩紀にも適用可能だよな。
ゲシュタルトを同時には一つしか持てないという性質上、ポジションみたいなものを作ると、まず争う事になるんだよね。いやこれは誰の批判でも無いんだけどね。いや東浩紀も落合陽一も、理論と実践を擦り合わせてくれれば、俺と争わずに済むんだけどね。
まあしかし、何者かになったような気がして色々書いていたけど、facebookとかtwitterのいいねとか、さっさと解体して良いかもしれない。
解体というか、情報量を絞って(いや上げて?)有意義なものにしようと思っていたけど、まあどうでも良いのかもな。
俺のエッセイ読んでどうすんのよ、みたいな。
まあ俺は書き続けるけど、排泄物みたいなものだし、ネットって本みたいに後世に残すようなものじゃないよな。
本で立派な事書いてる奴らもさ、そりゃひでーもんだと思うよ。じゃあ肉食ってんなよとか、うんこすんなよって思わないか?
いや何かを誤解したり云々じゃなくてね、本当にそう思うよ。
追記:俺のやってる事って要するにピエロだよな?と思って、急に馬鹿らしくなっちゃったよ。まあ必然性はあると思うけど、同じことやってるだけなんだな。
追記2:チベット死者の書サイケデリックバージョンとか読んでて思うけど、なんで俺ってこんなにコンディションが悪いんだろう。友達ぐらいいて良いのになあ。
追記3:つーか、世界全体が、銀河ヒッチハイクガイドのハツカネズミみたいなものに思えてならない。
だってさ、ああいう符合みたいなのって俺じゃないし、ちょっと適当にお気に入りに入れていって、どこまで付いてこれるかやってみようか、そのギリギリというか。
ベーシックイングリッシュは毎日最低25分はやってると思う。8月から。それの何が凄いという話だけど、俺は多分鬱っぽい所があるから偉い。アスペルガーは60%が鬱らしいから、5分やって疲れる状況で分割して毎日25分は偉いと思う。
俺昔はこういう妹とか姉に抵抗があったんだけど、よく考えたらあらゆる女が理論上は姉とか妹とか母とかになるんだなと分かって、ちょっと視界が開けた気がしたね。
俺仏教って信じてないんだよね。
遡って行ったら釈迦に行き着くとか、なんか中小企業の社長みたいじゃない。
それに理論では救えないよ。理論で救えるなら俺だって救えちゃうよ。
追記:そもそも救うっていうのが何なのか分からないしね。道徳と人間しか出てこない地獄が結びついているけど、訳が分からないよね。
不幸なのは幼少期からだけど、お祓いでもして貰ったほうが良いんだろうか?
この時空を超えたゲシュタルトは俺じゃない。でも一方で、俺とは何なのだろうか。お祓いの対象として見て不都合は無いだろう。自分だと思い込んでしまう危険性がある。それにちょっとでも忖度が必要な精神の同居人はいない方が良い。これはお祓いの対象である。
しかし、お祓いね。どうも人間や人間が作る宗教は信用できない所がある、こういう歴史が展開されてるのは生物だから当然なんだろうが。この世界を否定すれば生物学など成立し得ないし、生物学の観点からの人間としては間違いなかろう。それを相対化すれば、それこそハツカネズミが「すぐれた知性をもった汎次元生物がわれわれの三次元に突き出している部分」ではないか、真面目に検討しなくてはならなくなってくる。この生が幻覚剤のトリップのようなものであるなら、最初から生物学なんて成立し得ないのよ、と言われたらそうなんだろうが。なんか道徳と言いながら、それも含めて他の生物と同じくらいに合理的な行動を取り続けているような気がしてならないんだよな。機能してるか?そしてその程度なら他の生物にも見られないか?
日々のゲシュタルトと歴史の実相、もう少し寄せた方が、ナルシストじゃなくて良いんじゃないの?日本人凄い俺凄いを批判しながら、しかし人間凄い俺凄いをやってないか?それお前じゃなくね?
金一家は、天皇家みたいに残せば良いじゃんね。ランディングのモデルケースすら日本は用意出来てるんだよ。
追記:ロジックだって、三島由紀夫に必然性があるならば、あれにだって必然性があるんだよ。本当だから言っちゃうけど。
追記2:他の思想家がどういう世界で何をやってるかは知らんがな、日本のイメージが分裂しているのは確かで、というか90年代の映像もあんまり洗練されてないように見えるけどな。
https://twitter.com/yodogawa111/status/965355032739684353
こういう書き込み、お気に入りに入れようとしたけど、ツイート一覧見たら荒んでるんだよなあ。そういうパターンが確かにある。
他の行動が見えない状況での、人間的なというか社会的な部分への批判とかアドバイスって、ちょっと聞けないよな。
いやいやロジックへの批判は聞いてもらわないと困るんだよ。だから俺は正当なわけ。そうじゃなければ実際的には水戸黄門になってしまうし、俺の理論も通らないでしょう?
立派な人とは何ぞやって話だよね。水戸黄門はそうじゃないし、金一家もそうじゃない。
追記:しかし水戸黄門って気持ち悪い名前してんな。精神を表す水に、黄巾賊の黄に、戸や門か。
追記2:俺の認識では、黄巾賊の黄色は、チューリングマシンで言うヘッドを表している。 http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-73/ 俺は色に意味を読み取る行為全般に反対だけどな。それぞれの文化に当たってみれば分かるけど、本当に何とでも言えるから。周波数の感覚と、人間の目は茶色系統を見切る事に特化されていて、青はそれを補うような色、というような共通性はあるとは思うけど、そこに何か抽象的記号的な意味を見出すのは不毛だ。
アスペルガーだからなのか、俺は個人の視点を全体の視点に移すなんて芸当はできない。それができるという事は超越しているという事だし、できない方が本当は普通だろう。そしてだとすれば、その特殊な存在にしか投票権は実質的に与えられていないという事になる。統計的に誤差なものしか加える事ができないなら、実質的に加える事ができないのと同じだ。つまりアスペルガーに投票権は無いのだ。
追記:発達障害、精神の発達とは何ぞや、という事を思うんだよね。俺のSF的仮説が正しければ、民主主義と呼ばれているものは、その本質に精神未発達者への差別を含んでいて、しかもそれは言明されていない。他の人間は視点を移す事ができるのかもしれないが俺はできない。
追記2:俺にできるのはこの視点から全体のルールを考えてそれに合意する事だけでね。できないからなのかもしれんが、全体の視点でつまり自分を細胞と見なして動くなんて、気持ち悪い事に思える。投票システムはその統計の壁みたいなものを突破する事を求めていて、しかもそのテストは明言されていない。少なくとも俺の政治システムでは無い、なぜなら俺はそのテストでしっかり排除されている。
追記3:山奥ニートの生放送でそれを書いたことがあるけど、彼はほとんど唯一同意してくれた。ああいうものこそ俺達の政治なんだと思うな。というよりそれは政治ですら無い。民主主義はそのシステム内部に精神未発達者への差別を含んでいる。
追記4:そしてこれは差別問題への一般的な解答でもある。なぜなら差別とは何を根拠に誰をメンバーと見なすかという問題であり、ゲシュタルトの問題だからだ。ゲシュタルトの権力性自体に向き合わなければ、運動は新しい対立を生み出す事にしかならない。
いやはや、私は疲れた。まあでも少なくとも俺では無い事は確信した。
なんか媚びるみたいになりたくないと思うのよね。実家でニートやってると媚びがちになってくるのよ。
まあでも俺が誰かに洗脳されてるかもしれないとかコントロールされてるかもしれないとか、考えても仕方ない所はある。
俺って何なのだろう。意識の偏りのようなものだとしたら、境界は明確では無いのか?
追記:何であれ、ゲシュタルトに巻き込まれたく無い。でもスッピンが正しいのか?
追記2:メンバーシップが剥奪された後の遺伝子レベルの祝福だっけか。無とかその路線に進むか、ゲシュタルトを肯定するか。
追記3:正直どうでも良い気もするんだよ。結局はそれが答えなのかもしれねえ。
幻覚剤を使ったら自分の境界が溶けるわけだろ?じゃあ一体何を信じれば良いんだ?
そもそも信じるというのすら、意識を偏らせるという事に過ぎないのかもしれない。
俺は何も信じない。積極的に無になる事も無い。即ちニート…。
なんでこんなにダメージ喰らってんだろ。やっぱり憑かれてんのか。
ビジュアライズされるものは全て迷信だ。俺は寝る。
ああ、これでリレーぷよで食っていきたい、ってそんなに上手くねえけど。
ああ、条件付きの愛はやめよう、とレイプされた後みたいな、自分を抱くポーズを取る。
killer7のイワザルの自殺?シーンを探すという、極端に無駄な時間の使い方をしてしまった。笑顔の冒頭だった。
男女差別問題は確かにあり、フェミニストの活動によって改善し続けている。それは疑って無いし、その事で感情を悪化させるのは本意では無いね。
俺というのは結局、『中華に対する日本+理性信仰+アメリカの軽薄さ+戦後教育+オウムバッシング+ジブリ+2ちゃん+富山』でしか無いわけよな。
『中華に対する日本+アメリカの軽薄さ+富山』と『戦後教育+オウムバッシング(とそれへの反応)+ジブリ』と『理性信仰+2ちゃん』、つまり『辺境の反権威主義』と『戦後の自己(のアイデンティティ)批判や道徳』と『理性信仰』なわけだ。
つまり『シールズ+理性信仰=俺』、『俺-理性信仰=シールズ』でも良いが。
今まで自分は凡庸じゃないような気がしていたが、それは「凡庸じゃない」という凡庸さなんだろうな。この言動だって、戦後教育の評価関数からはじき出されたものでしか無い。
俺は常々思うのだけどさ、戦後に教育を受けてその通りに動いている奴らというのは、果たして左翼なんだろうか。いや別に左翼が偉いわけでは無いが。
戦中と戦後の連続性、下らなさ、が見えて無いようにしか思えないのよね。
今日は歯医者に行って歯を削られながら、ああ生きるという事はこういう事なんだな、と思った後図書館に行って、久しぶりに洗脳原論とスマートノートを読んできた。
洗脳原論に、新興宗教はダークネスバウンダリ―に触れた本人とその周辺の勘違いで立ち上がる、というような事が書いてあって、なるほどこういう時に新興宗教が立ち上がったりするのか、と思った。
スマートノートを読みながら面白さについて考えた。面白い料理や音楽を考えてみると、これは多分味とかより概念やイメージが面白いという事になるはずで、だから面白さというのは概念やイメージに属するものなのだろう。概念やイメージは情報で、概念は論理でイメージは要素だろう。ゲシュタルトや矛盾など、(時間や空間などの)論理構造と精神が合わさった時に面白さが生まれるのだろう。例えば音楽だったら、構成とか歴史だとかが分かったら、面白さになるのかもしれない。などと考えた(若干付け足した)。
まあ、あと言葉にすると無粋になる時というのはあって、だから考えてはいけない事というのは、やはりあるのだろうな。
そんな事を言ったら宗教に巻き込まれる、などと思っていたけど、例えばオウムは理屈っぽい奴が多かったと聞く。それを根拠に社会から外れていった。
万能のパターンなど無いし、究極的には、自分の視点無しで巻き込まれてはいけないものなど、無いのかもしれない。例えば人類で無ければ、何も否定し得ないだろう。だから俺はニートという、自分が作り出したゲシュタルトに頼るのだ。
魔境か。しかし伝統宗教ねえ。
こんな事が原理的に起こる世界に正解などあるのだろうか。
魔境の魔は、悪魔の魔なのだろうか。
客観的には俺って所謂魔境って奴に入ってるんだと思う。
思うけど俺の凄さって論理で、論理は夢の中でも論理というか、主観的なものでは無いわけじゃない?
その場合って、何が魔境で何が魔境じゃないんだろうね?
才能が無ければニートを9年続けないし、その上9年続けているわけだよね。
成功するには才能と環境どちらが大事みたいな議論があるけど、その意味では俺はニートのプロなのだろうな。
このゲーム好きだったな。確か中古でワンコインで買ったんだけど。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm19685829つまらない本はサジェスト汚染だし人の金は盗るし時間も盗るし、罪なんだ、という感覚がなぜ無いのか。
つまらない話に対しては濃厚にあるのに。
外すか外れるか。俺は外れてるんだけど外しているふりをする生存戦略。
追記:(社会のゲシュタルトを)外すか(社会のゲシュタルトから)外れるか。いやこれ書かないと意味が変わっちゃうな。あと、俺の文章が分かりにくいとしたら、多分相手の視点を想定して書いてないからなんだと思う。
人間社会とか人間関係自体が、ある種のナルシズムなのだと思うよ。
むしろ個人のナルシズムがいけないのは、人間社会とか人間関係のナルシズムと食い合うからだよね。
本は、俺にとってはだが、もはやある種の芸術作品なのかもしれない。
コレクションだから、一片の無駄もあってほしくない。
それなりの物量があって、最初から最後まで気持ち良く読める。
追記:博物館に展示されていてもおかしくないような本というかな。まあでもこれは俺の好みでしか無いのかもな。
追記2:それは別に本自体の凄みというより、どんな文脈でも良いから博物館に展示され得るというぐらいの意味で。それは当時の人間の資料でも良いけど。その際の引け目が少ないほど良い本という気がする。
追記3:まあ博物館は中を見れないけど。中を読んで、納得感が欲しい。
追記4:でもやっぱりこれは思想家の俺の好みなのかなー。漫画だったら1ページに2見開き印刷して1000ページ、みたいな。
地元の図書館でリクエストして届くのが三週間後なの何とかして欲しいわ。県に一人として予算一億とかで何とかなるだろ。
高一からずっと家にいる俺の人生って、って贅沢なんだろうか。
あと5年ぐらいで浮ついた恋愛はできなくなる。いや3年か。いやというよりは16から今までぐらいで終わってるか。
普通の奴らが中学と高校の勉強をする頃、2ちゃんばかりやっていた。大学と大学院の頃、twitterをやっていた。
別に大学に行った所で、入りたいサークルは無かったし、だからそれらしい交流も無かったのかもしれない。
東京の国公立に受かる程度の学力は無かったから、地元の大学に行って、普通に就職して喧嘩してやめてたのかもしれない。
しかしもう少し何とかならなかったかな俺の人生、という気はする。特にこの9年10年を逃したのはデカい。まあ俺にとっちゃあこれがベストなのかもしれないがな。元々30で死ぬつもりだったしな、テンプレ通り。
例えばこの統合失調症が悪化して、正に発狂という感じになったら、これはみじめだな。
人間はサル類だというバイアスを忘れたら見誤るよなあ。
銃乱射とか、元いじめられっ子(あるいは今も)としたら、複雑な気持ちだね。
銃を乱射しても、別に本人にとっては何の得にもならない。あれは政治なんだね。
人間みんなが面白くあろうとしてる。人生面白い気がしてきた。
追記:このアプリ( http://www.appbank.net/2016/06/05/iphone-application/1210137.php )で面白そうに生きてる人のタイムラインをパクるだけで良かったんだな。
もしぷよぷよがコミュニケーションだとすれば、打たずに勝つより、打って負ける方が良いんだよね、極論。
あとちぎって凝視ってなかなか良いね。
追記:そういえば、まはーらという凄いプレーヤーが出てきて、超上級者の間では逆に打たなくなってきてるらしい。ちょうど中級者の俺と入れ替わった形になる。どうやらぷよぷよも進化し続けているらしい。
洗脳原論でも哲学と超越が絡めて語られていて、一気に俺が凄いのか分からなくなった。
俺はハツカネズミの断片を見ているに過ぎなかったのか?
俺は、極論、差別がいけないと思ってるわけじゃない。
構造的に議論としてフェアじゃないし、参加者は差別はいけないと思ってるはずだし、それは差別だし、それならそれを指摘しに行こうとしただけだ。
まあ日本に限らず、最初から最後までポジショントークで進行するのが世界の常であるし、俺が議論で変わらなきゃいけないと思ってるのも、結局は俺が議論を得意としているからでしか無いのだろうね。
それは最近になって思う。
追記:俺は知と善を結び付けないから、哲人政治みたいな事を言ってるわけじゃない。民主主義を支持してるわけでも無いし、最初から最後まで自分の中の歪みとかバイアスの問題だろう。
追記2:「辺境の権威主義・反権威主義」、「戦後教育の自己批判・道徳」、「理性信仰」、それぞれ直さなきゃな。理性信仰はweb2.0の影響だろうけど、影響を受けたのは結局は議論が得意だったから。
後日追記:これについてだった。 https://togetter.com/li/1201908
ぷよぷよは、ちょっと、土台の連鎖尾側の研究でもするかな。
土台の連鎖尾側は、広義の挟みこみか、広義の階段などの後に雪崩で埋めるかのどちらかなのだけど、後者はシビアだし、普通のプレーヤーにとっては前者が安定するのかもしれない。
その広義の挟み込みの研究というか。折り返しとかその上は結構自動的に組めるもんな。
俺が統合失調症の治療を受けないのは、俺の考えでは宗教とはつまり統合失調症(シャーマン)で、人という種は何らか(おそらく戦争)のために宗教を必要としてきたからだよね。
もし統合失調症を全部治療できてしまったら、人という種としては困るわけ。
『健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。』というWHOの定義的にも、統合失調症者に必要なのは薬物治療ではなく、文明論とヨーダみたいになってしまう事への諦めだろう。
追記:薬物治療は、統合失調症が目的を達成する際の、何らかの原因によるバグだという認識に基づいている。もし統合失調症が目的自体なら、的外れだという事になる。
追記2:人々が天才と呼んで期待しているのはつまり、シャーマンが戦争における指導者だったからではないか。だから発現は少数個体に限られて、発現した個体はドーパミンを分泌する。
追記3:「統合失調症のみかた治療のすすめかたbot」 https://twitter.com/schizophrenia_r 読んでて面白い(仮説と合致するものが多い)。
追記4:でもさ、宗教とか天才とか、いなくなったら困るでしょ?それ統合失調症やで。
追記5:話し言葉としてこなれてるのは明らかに関西弁なんだよなあ。天皇も関西弁だったし。標準語なんて明治に整備されたばかりのものでしょう。まあ授業で教えるのはどうかと思うけど、関西弁が標準語だったら何か違う世界が存在した気がするな。
追記6:ドーパミンとノルアドレナリンを勘違いしていた。あと陰性症状の問題もある。まあでも、宗教は明らかに統合失調症によって発生したものだし(キリスト教の啓示、仏教の因縁、他の何にしても)、宗教無しで人類社会が成立し得るかと言えばかなり疑問だ。統合失調症が発生しないような群れは成立したなら滅ぶはずだし、それなら現実はともかく、目的自体として機能したと解釈すべきだ。
追記7:戦争と自警団(警察)と宗教と統合失調症と天才(宗教的指導者)は、かなり密接に結びついているという印象。どの観点から見ても他の要素が関係しているように感じる。強いて言うなら、自警団から他が見えにくいぐらいか。
追記8:少年漫画という凄さを強調するジャンルは、実はこれも隠蔽された愛国心だったのかもしれない。(他国や戦前に見られないならば)
ああ、良いソファーが欲しい。viveが欲しい。
追記:vrchat、羨ましいな。vrchatメイン、ウクレレ教室サブな人生を過ごしたい。
追記2:というのも俺は自制心が弱いので酒は飲まない事にしてる。だからvrchatが普及してくれると非常に都合が良い。祝祭空間だっけか。
結局は電脳化もさ、単に視覚とか聴覚とかいう意味では、viveとかで良いんだよな。
思考回路の共有みたいな所では、なんか俺がもうやってる感じがあるし。無意識レベルだから、そんな大したこと無い感じだ。
幽体離脱挑戦してるけど、気合が無いせいか上手く行かないな。 https://www13.atwiki.jp/ridatu/
追記:脳への介入というのは、直接的なものというより、ルールみたいなものであって欲しいわけじゃん?ネットワークを統合するゲシュタルトや意識、そうじゃなければLSDとかになるんじゃないのかな、分からんけど。幽体離脱とかの線でもっとヘンテコな事になってくるんだろうか。
追記2:思考回路の共有、俺がやってるのか、そもそも人生はトリップのようなもので世界が俺に合わせて変わってるのか、分からん。俺は明るくないから、SF的不条理を感じるだけだ。
実は俺も下校時には二宮金次郎スタイルだった。だから娯楽が少ない時代の人間が本を読んでいても全然尊敬しねえ。
追記:で歩きスマホバッシングがアホに見える。近所で噂にはならない。
追記2:お婆さんとかはあらあら関心ね、みたいな事を言ったかもしれないけど、基本的にはあまり褒められなかった。担任はちょっと微笑ましいみたいな笑いを浮かべたりしたが、別にそれに影響されて読んでたわけではなかったと思う、他にやる事も無かったし。まあでも下校中の読書は普通にやめた方が良いと言われていた気がする、体育教師にも。ただ歩きスマホほど風当たりが強くは無かった。
本格的に活字の本を読むようになったのは、小3の2学期の読書の秋みたいな授業で、山中恒の「くたばれかあちゃん」を読んでからだった。
それまでは皆と同じようにゾロリとかかいぞくポケットぐらいは読んでいたけど、活字しか無い本は真面目な奴が読むものだと馬鹿にしていたのだけど、タイトルで読んでみようと思った。
でそれが妙に面白くて、俺はそれからは結構本を読む奴だった。家では中学でネットにハマってからは読まなくなったが。
ネットが無ければ俺は今も本を読んでいたはずだし、10以上歳上であれば、本がどうこうと言っていても、俺からすればだからどうしたという話だ。
映画より好きだし、コスパまで考えれば漫画より良い。でも今や修行でしか無い。
追記:人文的知性よりネット的知性の方が勝っちゃったわけだけど、いつか俺になりたくて一日中ネット掲示板で厨房議論を展開する奴が出てくるんだろうか。何だか馬鹿だな、現実で会えば幻滅するはずだし、QOL落ちるのに、ってまあ流石に無いか。(そういう奴は俺が何を言ってるか全く分かってない奴だよな。まあ良いけどね。)
その人その時によって出会った方が良い人というのは違うはずで、それは例えば本でも同じなんじゃないか。
だとすれば本を勧める時には、条件式のようなものがあった方が良いのかもしれない。
25歳ぐらいのドロップアウトした男で、生活に興味があれば、図書館でリクエストして来たらその場で一章の三分の一まで読んで、つまらなかったら合わないから返して良い、とか。
本を書くにしろ本を勧めるにしろ、そこにはその人の意図がこもってしまうわけで、その意図の定式化みたいな事はマナーなんじゃないか。
追記:良い本とか、ビッグビジネスにつながるような研究とかって、資本の原理からは出てきて無い気がするんだよな。例えばgoogle検索にしろ、macintoshにしろ、自動運転にしろ。多分deepmindもそういう感じだよね?
追記2:もちろんビッグビジネスだけがビジネスでは無い。それは100%そう。
追記3:小説家も専業で食ってる人はほとんどいないそうだし、打率とか考えたらそれで良いんじゃないかなあと俺は思うけどねえ。資本主義は結構昔からあったわけで、ネットがどう機能するかという問題はあるけど、基本的にはやっぱりパトロンなんじゃないかと俺は思う。俺は不安定でどこまでやれるか分からないからまだだけど。
追記4:企業とか他者の目的に応えてそれが人生の全ての作品になるのは(偶然一致すればともかく)やっぱり違うし、それ自体を売って生活するというのもよっぽどの例外じゃないと無理。何か方法があれば良いんだけど、普通は他で稼ぐか、まあ昔だとパトロンか。なんかそういう意味では、これはお世辞では無く、本当に宇野常寛って偉いと思うんだよね。そういう意味での偉さでは東浩紀より絶対的に上だと思う。資本の評価に直接晒したら不毛になる所を、コミュニティーを作って資本に繋げている。まあ最初は手弁当だったそうだけど、いやどこも最初は手弁当だし、そのまま手弁当な所が結構あるんだと思う。そういう意味では専業作家と同じ構造なのかな。いや東浩紀とか宇野常寛とか落合陽一とかね、凄いけど別に正しくは無いよ(笑)。俺の感想としては本当にそれ。
追記5:いや俺も作るなら雑誌かなと思ったけど、俺の場合はあまりにも自己完結しすぎているというか、あとコミュ障だしやる気も無いし。いやでもね、それでも全体の最適という事を少しでも考えれば俺や俺の理論はいくらか世に出たほうが良いし、そういうバイアスはあるけど別に今が正解だという事は全然無いわけよ。まあ試行錯誤はするけどね、でも俺が世に出ない可能性があるって怖くない?
まあ俺も、信用とか信頼性について考えるけど、あれは人間は本来不確実な中で、手を伸ばして協力しやすくするためのものなんだろうね。
今や東浩紀とか宇野常寛とかに乗っかろうとか、実の所落合陽一も含めて敵だとは、思ってないんだよな。
俺は論理的という意味では一貫しているつもりだけど、ゲシュタルトという意味で一貫するつもりは無いし、それってつまり協力対象としての一貫性は持ってないって事なんじゃないかな。
論文にして、駄目だったらまあ諦めるかな。いやね、学会を作っても社会に認めてもらう必要があるし、それって正しさでそうなるわけじゃないんだよね。
ゲシュタルトで認められるわけね。グループを作ったり、継続的に生放送したり、文学フリマに出して評判になったりという。
国家とか資本主義(本来は資本主義は主義では無いのだが)というゲシュタルトがあって大学があって学会があるというようなね。研究会というだけで無く。
だから、別に今が正しいわけじゃないよ。最近の俺の研究で、「正しさ」とは「動きにおける同一性」での、「有る」とか「視点」とか「目的」みたいな意識の偏りじゃないかという事になっている。これは昨日か一昨日なんで変わるかもしれない。だからそういう意味では今が正しさと感じるのかもしれないけど、それは意識が偏る人間のバイアスなんだよ。まず俺だって世に出ていないし、出ない可能性が現にある。ネットで明らかになっただけで、今までだってずっとあったはず(運命論者で無ければね)。何かの初めみたいな、老子でもソクラテスでもニュートンでもアインシュタインでも、よく考えたら友人に本にしてみたらとか、凄く賢い学者に認められたりとか、本当に偶然に世に出てるわけよ。逆に世に出るべくして出たものって、大したことが無い場合が多い。これはおそらくプレイ人口の割合の問題で、だから違う可能性がいっぱいあったって事だ。今が正しいって、人間が考えるようなそういう意味での正解では無いのよ。
追記:今は「問い」とは何かが「動きにおける同一性」に収まるのかが分からなくて、だからこの「正しさ」の定義が正しいかは分からないけど、「今が正しい」というのが人間のバイアスであるのは間違いないと思う。
権威主義、反権威主義、自己否定。どうせ偏るならエゴイズムの方がマシだ。
その何でも無いというのが理想なのだけど、無理な時のためにエゴイズムをベースにしよう。
追記:戦後教育においては自己批判と道徳が結びついてしまっていて、俺もそれで動いてしまっている所があるけど、自己自体は悪くも良くも無い、中立だ。
追記2:洗脳原論を読んで、人間関係は案外コンテンツでは無く、精神のやり合いで決まるものなのかもしれないと、帰りの道で感じた。(いや、別に洗脳原論は読まなくても良いです。ハイ。)
追記3:凄く不健全な教育を施された気がするんだよな。親というだけでなく、前書いた色々で。まあでも、2歳違いの妹は元気だし、キャッチするものが違っただけなのかね。
追記4:3歳頃のオウムバッシングと2ちゃんが良くなかったのかね。
追記5:そういえばノストラダムスで死ぬと思ってたよ。その日になって車の中で親が平気そうだったから、死なないのかと思った。
誘惑に負けそう。大阪とか京都辺りにでも行ってみるか?
やる気出そうと思ってこれ見てた。実はらき☆すた本編は当時観てなかった。後から分かったのだけど、俺にとってのアニメってネット民というアイデンティティの問題だったんだね。
追記:あるいはケーブルテレビかな。アニマックスとかキッズステーションとかニコロデオンとか。中1の春に来て、ハルヒの頃は実はもうあまり観てなかった。ローゼンメイデンとか、ノエイン、地獄少女、岩窟王、げんしけん、サムライチャンプルーとか、その頃だな。岩窟王を観ながらコーヒーを飲むのが好きだった。ニコロデオンはヘイアーノルドとスポンジボブが好きだったな。
追記2:評価とか好きとかを表すのはどうかなといつも思うんだけど、もうあそこら辺は歴史って感じだから良いだろう。全部一話から面白かったはずで(スポンジボブは違う、ヘイアーノルドは知らん)、それ観て合わなかったら見なくて良いんじゃないかな。青春って感じなのかもね。全くそうじゃないんだけども。(評価のつもりは無いです。人や歳によって違うはずだし、話の流れで偶然。)
2007年7月1日のコメントでボーッと見ていた。始めなきゃなあ。
追記:フェミニストがオタクをしばく理由、今見たらすげえ分かるわ。
追記2:別に分かるというのが正しいわけでは無い。
教養みたいな話なのかねえ。
追記:まあ、普通は、本人にとって本人は面白いんだもんな。アイデアとかにしろ。でそれは本当に原理的に面白いのではないか。
追記2:勉強っていうのは必要性とか道徳であるべきでは無い。面白さを感じていて伝えたいという人間が、その面白さと一緒に伝えるべきだ。そしてそれはコミュニケーションなのだから、教える側は正解では無いし、受ける側も客ではいけない。
追記3:道徳っていうのは、結局は保護者の配慮なんだよな。その意味では、本当の勉強は反道徳であるはずだよね。
しかし一方で、世界はLSDの幻覚のようなものかもしれないという視線は、絶対に持っておきたい。何よりアクセス数からそう推測するのが自然だ。
ループが滑らかじゃ無くなってる気がする。
評価っていうのは、私からその人、というようなもので、ベストな状態じゃないような錯覚が俺の中にある。(追記:構造に囚われている)
マインドフルネスは自分の体に意識を向けるし、また無我夢中が良いという奴もいるから、そんなものには結局の所何の根拠も無い、それは分かる。(追記:論理構造を核にした良し悪しの判断には、何の根拠も無い。例えばコミュニケーションが良いとか悪いとか)
評価されたいと嗅ぎまわっているくせに、いざ評価されたら不本意に感じる自分がいる。何なのだろうか。
追記:25歳ぐらいの男はポエミーになるものなのだ。思春期の頃には30歳に死ぬと言い出して、20とか25ぐらいから本当に30まで生きている気がしなくなる。ベルトコンベアーだ。あるいは現代の日本人の男だけかもしれん。
追記2:日本のメンヘラ芸って何なんだろう。本当にどうかと思うよ。
追記3:問題は俺がただのオタクな事だ。
これが20年前とかになったら嫌だろうなあ。
追記:最近の若者は、っていう健全なサイクルはさ、忘却とセットなんだよな。何だこんなものは。私には関係ない。ってここまで残ってて言えるのだろうか。言えるのだろう。
俺が合唱練習が嫌だったのは、運動会と合わせて軍国主義的に感じたというのもあるけど、何より口臭がコンプレックスだったからなのよね。
今でも少しでも食生活が悪くなると、すぐ臭くなってしまう。これは父親も同じコンプレックスを持っていたみたいだ。
追記:こういう風に書きたくなるのも、(何も隠すなと)スピリチュアル系に刷り込まれたせいかもしれん。俺は学習能力が高すぎるのだ、おそらく。宗教、特に新興宗教は本当によした方が良い。人間は普通は脳神経の束だ。トラウマのようなものを意図的に作られると抗えない。
追記2:と言っても俺の場合はyoutubeやブログを見ていただけだったが。それだけでもだ。やめた方が良いと、口を酸っぱくして言いたい。
枕は意外と良い素材が無いんだなあ。
ま、金も無いし、近くの店でそば殻かパイプの枕でも買ってきて、薄かったらタオルで調節するか。
座ってる時の上半身、立ってる時みたいなのが理想なのかもしれん。
これは童貞の俺の偏見だろうか。「人間はダメ」と言われる時の「人間」に、なぜだか女があまり含まれてないように感じるのは。
女も人間である以上は、結構文脈で発言していると思うのだけど。
追記:女がある種のはしゃぎ方をしていると、子供みたいじゃないか、と妹を思い出して妙に感じる時がある。これってある気がするんだよな。男から兄とか弟とか悪ガキっぽさを感じる時はあっても、女から姉とか妹とか子供っぽさを感じる事は、比較的少ない気がする。そしてそれは女を抑圧すると同時に、キモオタ童貞も抑圧している。
追記2:いつか、子供の子供らしさからの解放、という社会運動が発生しても良いのかもしれない。学校のカリキュラムでもそうだけど、子供の活動が無いんだよな、仕方ないのだけど。
追記3:社会問題って結局は、社会的なコードの問題、という気がするんだよ。服装もそうだし、例えばパーティー文化とかお茶会とか、また俺自身が身構えてしまう所まで含めて。そのコードを全部取っ払った時に、社会というのが存在するのか。そして特権的なコードとは何なのだろうか。何を理由に肯定され、またそれ一つで無ければならないのか。例えば子供がポルポトの少年兵のようであってはいけない理由は何か。
追記4:これはこうも言える。人々の考える「人間」には、大多数である、文明以前の人間は入っているのか。何を根拠に、何を特権と見なすべきか。
追記5:人間はサル類だ。という事を言う時に、なぜだか女が入ってないような感触があったんだよな。怒っている人間に対しての悪口みたいな事では無いわけ。どれだけ論理の組み立てや判断にそのバイアスが入っているか、という問題。俺が道化みたいに振る舞うのも、それがあるからでしか無い。
枕というのは要するに、内側に入れる素材と、内袋の形だろう。
何が適正価格なのか、更には自分に合うのか、サッパリ分からない。しかし俺は選ぼうとしているし、選ぶわけだ。
枕選びや家具選びとはゲシュタルト選びであり、だから不安を埋め合わせるものでもある。
枕難民すら発生する。
好きを表明するって、なぜなのか権力だよな。私のゲシュタルトに適う、って事なんだと思うけど。
追記:評価は社会的な、目的についてのものなんだと思うけど、それに対して好きは個人的なもので、今はその個人の好きが大暴れしているようにも思える。
追記2:例えばyoutubeってそれぞれが好きなものを見ていて、交換しないから相場を想定する必要も無いし、評価が深まらないとかも無くて、純粋な好きなわけじゃない?でも何だか息苦しいというか、権力みたいなものを、俺なんかは感じちゃうんだよな。(ちなみに相場においては、最初から皆がどう評価するかをそれぞれが想定するから、評価が深まらない。これはディープラーニングみたいな原理で、工学的に説明できると思ってる。valuはそのバグを突いたサービスだったのではないか。)
俺が宗教を信じないのはさ、どう見ても時間や空間を超えてないからだよね。
もし時間や空間を超えてるなら、例えば仏教とキリスト教とヒンドゥー教とエジプト死者の書とまあその他いろいろと、共通している所しか本当じゃないという事になる。
何が残るというのだろう。そして自分たちこそがと考えるなら、その自分たちにとっての異教徒とはどのような存在なのだろう。
仏教も、教えと言いながらそれは釈迦の精神パワーでしか無いよね。釈迦の精神パワーなら時空を超えるはずなのに、なぜ時空を超えた広がりを見せてないのか(キリスト教圏など他)、あるいはなぜ末法があるのか、理論では無いのに。
追記:まあ強制はしない。そういうゲシュタルトで争っても仕方が無いから。同じになる必要は無い。
追記2:まあ日本にいるから気付かないけど、そもそも仏教はそこまでの人口では無いんだっけか。理論というものにどういう意味があると考えているのか、サッパリ分からん。100歩譲って、なぜ釈迦がこぼしたコップの水ではいけないのか。 http://hama-1987.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-770f.html 他の文明が考えた同じ理論と、釈迦がこぼした水ではなぜいけない?良いのであれば、なぜ仏教に特権性があるんだ?
俺は宗教が嫌いだし、であるならば、自分の天才であるという自己認識を徹底的に批判しなければならない。
追記:予定調和のようなものはある。村上春樹もエッセイで書いているし、俺も現に体験している。現代文明はそれを否定しているから、それが起こる宗教に正当性を感じてハマる奴が出てくる。仮にその現象があったとして、どういう実験があり得るか、もし実験によって、そもそも物理法則を成立させている数学レベルの世界からの、予定調和という影響を否定したり肯定したりできるなら、それに越したことは無い。時間や空間をそもそも成立させている数学レベルの世界は存在する。問題はその世界において、物理法則以外の影響がロックアウトされているか。俺の目にはどう見ても予定調和がある、村上春樹だってそう書いている。 http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/353418/tachiyomi.html 不安になるのかもしれないけど、論理的には半信半疑っていうのが大事なんだぞと言いたい。信じるって論理じゃないから。
追記2:そして俺はあると確信しているから、今こうやって宗教を批判している。科学的なものが信じられなくなった後に、宗教の方向に流れる事を懸念しているからだ。人間はそもそも信じるものを求めている。科学が無い時代は、だからずっと宗教が先人だった。論理的っていうのは半信半疑になることだ。数学レベルの世界があるなら、そこからの影響の可能性を最低限想定する事だ。
追記3:人類はミスばかりしてきている。例えば投票行動の合理性を判定する視点の問題、もし自分の視点からだったら投票行動は統計的に誤差だ、やる意味が無い。この問題が議論されてないのはやっぱりおかしい。正直に言うけれども、俺はIQは確か106だったはずだ。アスペルガーだと診断された時にやったけど、大体それぐらいだったはず。昔テレビでやったテストでは99で、やっぱり俺は天才じゃないんだとガッカリして、友達には平均だったと嘘をついた事もある。俺はやはり天才では無い。凡人が予断無しで論理的であろうとして、ベーシックイングリッシュ研究が上手く行って、後は俺じゃない予定調和が凄みを与えているだけ。俺は謙虚は嫌いだけど、むしろだからこそ客観的に、自分が天才じゃない事はしっかり認めたい。俺のIQは106だ。
追記:途上国支援でも、金をかけるべきなのは何より現地の警察だよなあ。
俺は今までも小説家とかが商売として成立してたかって疑問だけどな。生存者バイアスみたいなものなのではないか。儲かってる奴はその例外なんだよね、普通に。
追記:トップクラスになったらそれだけで飯を食えるって、ラッパーが女を侍らせてるのとかと似たような事なんじゃないか。そういうのがあったら結構な事だなあと俺も思うけどね。
追記2:この日本語理論、評価されたいな〜。 http://otoimi.net/