生物が動くのは対象が植物であれ捕食するためなわけで、そもそも褒められた事じゃない。その動く生物であるという所を人類についての思考のスタート地点にした方が妥当というか、今の人類の自己像は普通に美しすぎると思う。
まあ俺は脳死前と脳死後で扱いが変わるのは妥当だと思うし、同じフレームでベジタリアンも妥当な選択をしていると思うから、それを差別主義みたいに言われているのは傍から見て不当だなとは思う。傍から見てっていうのは俺も肉を食ってるからなんだけど。
まあ料理文化を脅かさないような培養肉が出てきた辺りから、家畜についての風向きも変わってくるんだと思うけどね。奴隷も機械が出てきてから風向きが変わったから。
元々のイメージが美しすぎるから、それとの齟齬で自分と直接的に関係無いような現象に怒りが湧く。そもそも、俺はJPOPにしろ何にしろ、高次元生命体みたいに振る舞う美しいもの全般を信じていない、それならなぜLSDが使えるようになっていないのか状況に疑問があるからだ。
追記:「反知性主義」という言葉を使う人の考える知性とは人文学や人文よりの社会学の事なんだと思うが、学問が今の形で盛り上がったのは19世紀からだし、19世紀からは優秀な人間は数学や物理学や工学をやろうとしたはずで、現に哲学でもそれぐらいから質が変わっているというか、明晰じゃ無くなっている。だから今の体制の中で人文知をやっている自分たちを知性としているなら、それは歴史的経緯からして間違っている。
追記2:田舎のほとんどは平野だし、畑や田んぼも誰かがトラクターだとかで管理している風景の一部で、住んでいるほとんどの人間には関係無い。田舎を文化として見ようとする言説には逆らった方が良いんじゃないかというか、それで結局田舎に住んでいる大多数は間違った事をしているかのようになってしまう、あるいは存在しなくなってしまう。今の畑や田んぼはもちろん、昔の畑や田んぼも工場だったはずだし、商店街も必然性によって生まれ、その延長線上にショッピングモールなどがある。文化という評価尺度自体がおかしい、それで田舎に勝てるはずがない、なぜなら文化とは人の脳によって作られるものだからだ。
追記3:なぜ地元にいたまま発信できないのか、あるいは月や火星から発信できないのか。なぜ本や雑誌という形でまとめなければいけないのか。一つ書き込みが加わるだけで、それまでの書き込みの印象もガラッと変わってしまい得る。その書き込みを加えるのは自分である必要も無い。様々な地点から様々な読みによって様々に情報がまとまるという事があっても良い。俺のようなアカウントが複数あるというだけではなぜいけないのか。
追記4:まあしかし、なぜ投票への批判や日本語論や集合論に対してフローチャートが見逃されている事などが共有されないのかというのが、俺から見た人類の不備なわけだが、考えてみればほとんどの共有されるべき知識というのは共有されないのが常なのかもしれない。そういう不満はよく聞くし、生存バイアスが働いているだけか。もし日本語学会が駄目だったら、俺はこれから色んな所に顔を見せに行かなければいけない。なぜリプライなどでは駄目なのか、意味が分からない。
追記5:日本語学会から返信があった。俺の早とちりだった。通るか通らないかはともかく、紳士的?な対応だった。
追記6:「反知性主義」については昔から書いている事だし問題無いと思うけど、まあ俺のような奴はしがらみが少ない方が良いと最近よく思うね、まあ。
数字っていうのは方向というか、0を前提に1があって、1を前提に2がある。その1と2の間も、10進法なら1.0〜1.9で10に分けられて、その後も重層的に延々と分けられていくが、しかし何を前提に何があるかという意味で、方向は一律としてある。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=410262399386522&id=100012082960377 このリンク先は、ユークリッド幾何学の自動証明のために(現在はデカルト座標に置き換えて証明されている)、角度を定式化する必要があると思って、重層的なのを表現するために数字を使わざるを得なかったのだけど、9の後に0が来るなら、もはや1や2も数字の1や2では無いんだよな。
コンピューターの認識を考える際の一つのモデルとして、空間をそもそも○と→で捉えて、そのまま一貫した枠組みでその中に存在や動きの同一性を見出したり、それで思考するという事があっても良いのかもしれない。
それは原点を持つとは限らないので、デカルト座標とは限らない。
そもそも人間の視界とかって多分だけどそういう風にできていて、視神経が光に反応してそのまま脳神経の集まりに繋がったりしている。現代の人間の世界観ってどこかデカルト座標的で、これは世界観としても面白いと思う。
素人とプロフェッショナルについて、一つ書こうかな。
美しさや面白さという事で言えば、ぴったりのスケールっていうのがあって、例えば富士山は遠くから見れば美しいけど、近くから見ればゴツゴツした岩でしか無い。
これは時系列でも言えて、絵の一部を切り取っても成り立たない事が実際多いように、時系列の中で意味を持つ事もある。俺の理論もまるでそれで、簡単な事を簡単に言って新しいっていうのは、まあそのジャンルにちょっと詳しくないと凄さは分からないわな。
日本語学会とかを見ていると、そのスケールという事を考える。資本主義でも全体性が必要で、犯罪者が逃げ込めるような場所はあってはならない、あったとしたら多分潰されるだろう。
緑が美しいっていうのも、近くで見たら違うんじゃないかという気がしている。
これは少し前に書いたかもしれないけど、葉の形と枝の形には、お互いからお互いを弾き出せるんじゃないかと思うぐらいに相関性がある。地上から出ている部分は最適化されていて生命でしか無い。
確かにこういう研究(https://gigazine.net/news/20180101-trees-language/)はあるが、それもお互いに大きくなっていれば、現状維持した方が生存に有利だからである可能性もある。現に森林浴のスッキリした感じは、木が他を弱らせるために出している物質を、人間がそう感じているだけなんだそうだ。
花も、蝶や蛾やハチが飛び交い繁殖していく。
まあその時々で向いているスケールは違うし、主義なんてバイアスでしか無い。俺は素人で成功したわけだし。
人間は慈悲だとか思いやりを自分たちの専売特許だと思っている所があるけど、人間が家畜に向ける程度の慈悲なら、自然界でも観察されるんだよね。
脳神経のバグなのか、死みたいな感じで生物全般に備わっている本能なのか分からんけど、ほんのそれだけさえ働くようにしておけば、そこまで壊滅的な状況にはならないのではないか。
後ろまで広がる視界を何となく想像してみて、n点透視図法的に四角だとかが歪む人間の視覚の奇妙さを感じるわけだけど、3dで視覚情報を扱うようになってきた時に、カメラっていうのは何なんだろうというのは思う。
これはVRの問題でもあるわけだけど。
追記:俺はイニシアティブという事は考えていない、少なくとも考えないようにしたいと思っている。それは、イニシアティブっていうのは主義の問題だと思うし、主義っていうのは実際的にバイアスだと思うからだね。主義を持つ人がいても良いと思うし。
追記2:人間というのは本当に見ているのか、という話でもあるのかもしれない。盲目の人間は触る場所によって、空間におけるそれが何なのかの判断を変えるわけだけど、健常者も本当に見ていると言えるんだろうか。
追記3:迷信を掲げ続けた方が結果的に上手くいくっていうのはさ、宗教とか地獄とかも同じなんだよな。
追記4:まあ東さんが嫌なら良いけどさ。まあ工学はプログラミング言語でもそうだけど思想っぽくなるし、思想もその時の工学と不可分にあると思う。工学っていうのは具体的にできるっていうのを前提にそれを体系化するような事で、現実におけるフローチャート的な知だと思う。今まで思想と呼ばれていたものは現実における集合論的な知だと思っている。工学だと思われてるものは思想だったりするし、思想だと思われてるものも工学っぽかったりする。このスペクトラムの中でもっと連携があって良いと思う。落合陽一氏は両方できる人であまり関係無いのかなと思うけど。
追記5:人間の上半身の筋肉は手を動かすために付いているとか、結構面白い話だと思ったけどな。まあ俺は野次馬的に面白くなりそうなら反応するし、そうじゃなかったら反応しない、それだけだから。
追記6:俺は投票の否定というか相対化は、そこまで破壊的な考えだとは思っていない。議会を壊すとかでなく、町内会だとかで別にやるだけだから。組織票で乗っ取っても良いけど、それは少なくとも十数年で何とかなる事じゃない。個人が人生の目標に組み込むようなスケールじゃない。
少し有名人の気持ちが分かるようになってきたというか、ネットで揶揄されてる時の気持ちって、現実で揶揄されてる時の気持ちと同じなんだね、こいつには驚いた。
まあ、知識の良い所は一度作れば伝える側のコストが0な所で、使う奴が俺を揶揄するあいつだろうが、はたまたあいつだろうが、コスト0をケチる気は無いがな、そいつのために努力はしないが何せコスト0だからな、勝手に使えやって感じだよ。
追記:まあ俺は予定調和があると思ってるから。快適度を上げるための企業努力だな。無駄かも俺には分からないけれども。
追記2:なんでこんなにバッシングされてるのか、本当に心当たりが無い。
追記3:最近、まさかとは思うが、高校でいじめられたのは、ニートになりたくていじめられるように無意識で演技をしていたのかもしれない、と思うことがある。
外出する時に、建築っていうのは一つの切り口なんじゃないかと思い始めている。
ショッピングモールも建築の力が大きいんじゃないかと思う。大きくて居心地が良くて掃除が行き届いている。何をすれば良いのかハッキリしているのも一つの居心地の良さだと思う。
色褪せるゲームと色褪せないゲームがあるけど、色褪せるゲームっていうのはどこかでコミュニケーションとか社会性だったのだと思う。そしてそれは当時には本当に楽しかった。
最近の消費からはコミュニケーションが失われつつあって、それは少なくとも楽しさの一つの側面は損なわれているという事なのだと思う。
ぶっちゃけ、俺のtwitterとかfacebookの書き込みもコミュニケーションだったと思う。ネットに繋がってない状態だと現に何かを書こうという気にならなかった。フォロワーはほとんどいなくて壁打ち状態だったけど、壁というよりネットだったから何かと繋がってる感覚があったのだと思う(もちろん実際には繋がっていなかったにしても)。
東浩紀さんっていうのは右翼なんだけど他の右翼より本質的で、国家に代わる新しいものを求め続けているが失敗し続けている。
そしてそれで生き方として完結されている。それが彼だ。
俺はどの年齢に対しても同じように振舞っているし、それで本人や俺が得をしているかはともかく、確実に議論としては面白くなっていると思っている。そういう振る舞いができているかについては、結構自信がある。
例えば投票にしても、無自覚につまり議論せずに全体の視点で投票に行くよりも、自覚的に全体の視点で投票に行くか、個人の視点で町内会などに参加して最終的には中国の人民会議みたいになっていくか選べた方が、議論として面白いし、そして俺はそっちの方が良いと思うのよね。分からずに成功するより、分かって失敗した方が良い。
日本語学会からちょうど返信が来た。
あの紳士的な返信は正に事務的な、機関としては真っ当な返信だった。
ここに日本語学会のあいさつも添付しておく。
https://www.jpling.gr.jp/gaiyo/aisatu/#aisatu_2018
まあ言語学のarXivみたいなものは無くて他に流通ルートは無さそうだし、一万も払ったから、この一年は修正して再投稿しようと思う。
それで駄目だったら金沢などの文学フリマで販売して、それも駄目だったらこの件は終わりだな。
追記:短信なのは、要約も何も無いっていうのと、前例を踏まえてだな。
追記2:そこらのサラリーマンが何か発見したとして、本屋だとか身近な店舗に載る事は無いし、ネットからも伝わらない。それは事実だよ。twitterの自動フォローも禁止されてるしね。
追記3:noteにも掲載してるしね。https://note.mu/otoimi/n/nb05f1ce21564 まあ色々やってるんだけどね。
人間が自分たちで作っているイメージは、社会理論を立てる時などに完全にバイアスとして働いている。
なぜ人類はという物言いが可能かと言えば、身長や知能などが大体まとまっているから。他の奴ら、それはまるで動物のように振る舞ったはずだが、はこの人類が絶滅させた。それを、つまりその前史の存在を忘れるなと忠告しておく。
追記:研究など現実を否定するにしても、人類という枠組みに捉われるのは本当に良くない。
追記2:いやちょっと待って、俺幽遊白書本当に読んだ事無かったし。まあいいか。
追記3:エアリプね。まあどうしても間が悪かったというか。noteのpvも8?だったし。
『本当の事なんて知らなくても良いのかもしれない、だって現状からして意味が分からないし。』から始まって、途中でipadの電源が消えてしまったのだけど、どうしても書く。
現実感というのは、工学的には確からしさというか、方程式みたいな、右目から見て左目から見てこの位置にあるだろう、みたいな事でしか無いだろう。叩いて音がしなければ現実感は無い。
楽しさがフローチャートの学びに関する感情なら、この方程式みたいに弾き出される、確からしさは重要だろう。あと集中も大事かもしれない。
釣り(ちなみに最近の研究では魚介類にも痛みはあるらしい)やコミュニケーションが特に楽しいのも、人間が社会的生物であるという所から説明できる。
そうじゃない現実感っていうのは、例えば時間に偏る精神みたいな何かなんだろうけど、LSDは使えるようになってないし(そしてそれはおそらく理性的に検討されたわけですら無い、昔は幻覚剤を使っていた)、何も分からない。
自分は活動家なんだっていう自負が、たまにあったりするんだよね、それは後から振り返って捏造された幻想でしか無いんだけどね。
追記:まあでももうそれは終わりだな、流石に。
師匠と弟子みたいなのには、空間だとかによる限定が必要だと思う。ネットだとどうしても複数人から影響を受けてしまう。
そして弟子もまあ人間なわけで、隠してても損得鑑定は現実としてやってて、その上でそこにいようとするわけだ。少なくとも他に仕事をしなくても生存できて、教えてもらえて、出る所ではお小遣いまで出ちゃうかもしれない。時間が経つほど抜けにくくなるのは、それが搾取で無く、むしろ贈与だからだろう。
俺が岩崎夏海さんのブロマガを買ったのは、もちろん自分もブロマガで食って行きたいと思っていて、だから今オンラインサロンに入る人みたいな心理(https://agenda-note.com/customer/detail/id=351)もあったわけだけど、それ以外では面白さについて教えてくれそうだと思ったからだよね。で読まなくなったのは映画について書き始めたから。それだけだよね。
他には胃を痛めたのは俺のせいだという考えがあるのかもしれないけど、それだって少なくとも意識してやった事じゃないよ。俺の観測範囲では、他には東浩紀氏と小林銅蟲氏と茂木健一郎氏と石川善樹氏と、あともしかしたら糸井重里氏と堀江貴文氏がそうなのかなあ、というぐらいだけど。
小林銅蟲氏はよく分からなくて、俺もどうにか持ち直して欲しいと思うけど、それ以外では価値観を否定というか相対化されたのが直接的な原因なのだと思う。しかしそれぞれへの価値観(思想、笑いと進学校、論文と統計、メディア、資本主義)への分析は妥当なものだったと思うし、そうは言っても価値観への分析はあった方が良いものだと思うんだよな。
岩崎夏海氏は強いて言うなら受験戦争だろうか。本人は詰め込み教育だと言うのかもしれないけど、俺は受験戦争だと思う。
ゲンロン0も何のトリックでも無い。あれを読んだら新左翼以降の流れを調べるのは当たり前だし、俺の観測範囲ではシールズと外山恒一氏で、その二者ともゲンロン0と同じような結論を弾き出していた。それが分かったからこそ本人もダメージを受けた。
俺の意図があるとすれば、ゲンロン0が書かれた所から始まっていなければならない。それは時系列的に無理だって事は、東さん本人なら分かってるはず。
批評再生塾は行かないに決まってるけど、それが始まる前に一回ぐらいゲンロンカフェに行っておかなかったのは間違っていたかもしれないと思う。客として一回行ってどうにかなるとは思えなかったから行かなかったけど、もしかしたらどうにかなったかもしれない。
まあしかし東浩紀という人間は、いちいち俺以外にも誰かに呼びかけているように見えるし、こういう風に俺が関係していると思っているのも、何かトリックに過ぎないのかもしれない。pvも10だし。
noteに書かないのは10年後とか20年後とかに残ってない気がするからだな。facebookは流石に誰かがテキストを保存しているだろうと思ってるけど。
あとは前後の文脈が無くなってしまうし、短い文章が書けなくなってしまうし。まあ俺も自分なりにベストを尽くしているに決まっているじゃないの。何を理由に他者として批判しているのかが分からない。
https://www.youtube.com/watch?v=r4J0C5Z8k_k
この動画の冒頭を見て、俺の事かと思ったな。pv10だしな。
ニートをしているとどんどん意固地になっていって、意固地になっていくとどんどん助けてくれる人も減っていってしまう。
社会問題について語る世の中や人を見て、嘘を付いているなと思うわけだけど、もしその困っている世の中すら俺の主観に過ぎないのなら、俺はただ助けて貰っていないだけだ。
ビルドの説、良かった。 https://note.mu/kayamatetsu/m/m54309bc09283
あと誰とは言わないけど何人かにもお礼を言っておく。あるいは俺に向けたものじゃなくても。
お金が欲しいからnoteでネット乞食をする事にした。
追記:統合失調症で主観的にニュータイプを経験して、生物としては不正解というか、こっちは行き止まりだから来ないほうが良いと伝えたいけど、それも主観かもしれないものな。
俺が働かないのはここ二年は研究の余力を残すためで、まあしかし金はあった方が良いんだよ。アスペルガーで統合失調症なんだから、薬を飲まず障害年金を受け取れる病院を探しても良いのかもしれない、適合ラインには達しているだろうし。それで統合失調症である自分が集合的無意識で確定して、みたいな事があるならもう勝手にしろという感じだよ。
ここ最近の書き込みだとまるでnoteが悪いみたいだけど、そういうわけでは無いのよね。というのも本で無くネットというのは、具体的にはああいう形になるだろうからね。
あのワナビーの記事も、要するにゲームという事だよね。テレビだとかで共通言語を持たない状態でのコミュニケーションや、そこから立ち上がってくるものがゲームと呼ばれているんだろうけど。ただ、俺の書いている事も言われてみればゲームっぽいけど、ゲームっていうのは普遍的なものだから、俺の推測ではゲームで時代が語られるのは今回が初めてでは無いんじゃないかとは思うけど。
まあしかしなぜ俺というのは、人々に俺に対する何らかの権利を持っていると思わせてしまう所があるのだろう。
現在の振る舞いで説明する人もいるのかもしれないけど、twitterの時もそうで、何なら学校で喋ってない時もそうだったんだよね。
俺の推測では、何か恥ずかしいからなんじゃないかな。ゲシュタルトの端っこにいるから、コントロールしたくなるんじゃないか。
追記:まあでも道徳的な事をすんなり受け入れてしまうのは、萌えアニメが面白かったりする時みたいに、弱さなんだよね、疲れと表現しても良いけど。
追記2:『日本イデオロギー論』の序論の『現代日本の思想上の諸問題』だけ読んだ。そこにまとまっているという話だったから。良かったよ。 https://www.aozora.gr.jp/cards/000281/files/3596_39403.html
追記3:でも俺は日本がどうこうとか、いかにも思想的なものは嫌なんだよね。思想と呼ばれているものを普遍的なものに、つまり全生物に開きたい。そこらの人の俺はそうは思わないとか関係無い。いっぱい支持される思想が本当の思想なんだっていう、そんなはずが無いでしょう。そういうサル類みたいな事じゃない。
追記4:思想とか統計とかね、そんなのはトンカチとかノコギリみたいな事でしか無いんだよ。俺はトンカチ専門だエッヘン、俺はノコギリ専門だエッヘン。今の人間がやっている事は要するにそういう事だ。
追記5:俺は思想イタコみたいな所があるんだよ。あるいは周りが夢か。信じてもらえないかもしれないけど。まああくまで理論なわけで、俺がどういう存在かは関係無いよね。年齢とか精神性とか、俺から言わせればちゃんちゃらおかしいよね。
追記6:人間は身の回りで起こる事を現実だと思い込んでしまう。ってそりゃ俺か。ただ、オウム真理教とか戦時中とか、教訓にした方が良いとは思うけどね、ユダとかね。つまり宗教を迫害しないという所まで含めて。
岩崎夏海さんの『競走考』のゆとり教育の次のジェネレーションz(https://it.srad.jp/story/17/04/08/212238/)の所を読んで思ったけど、彼の最も根本的な問題は、少年漫画でもあさま山荘以後のあえてでも無く、父親なんだよね。
世代みたいなものは、共通の情報(集合論)と共通の問題意識(フローチャート)の二つによって形作られる。
ジェネレーションzのこの趣向は要するに、ネット接続がスマホになって、写真とか動画とかに偏った結果生まれたもの。子供っぽい方が色が映えるし、youtubeの題材にもしやすい。また現実じゃないから暴力で均衡を取る必要が無くなった、また反大人で一体感を得る必要も無くなった。
共通の社会的な問題意識があるのかは分からない。政治的というより経済的な問題、貧乏への適応に見えるけど。貧乏で暇を潰すなら子供が一番というわけだろう。
まあでも小説とか映画とかテレビとか雑誌とか2ちゃんとかtwitterとかyoutubeとかインスタグラムとか、どうでも良いよ。2ちゃんとか過去ログ読めば分かるけどつまらねえよ。
共通の問題意識もどうでも良いしね。つまりその限りにおいて世代と呼ばれる傾向はあるわけだけど、どうでも良いわけよ。
追記:最も政治的にフラットな状態を想像した場合、それは皆がメディアというより、メディアの消滅という方が現実としては近い。そうするとそれもどうでも良いしね。
追記2:まああの日本語学会はどうにかならんかなと思うけどね。日本語とか古文の活用表とか馬鹿らしいよ。あんなものは本質的には「日本語における音」を「子音と母音」に書き換えればそれで終わりだ、もう研究はあるんだから。あとは警察を始め、経済に関する国際的な連携とかね。
追記3:まあ次に日本語学会に送るのは、査読者を客と考えて、機能語を分解して俺の理論に結びつけて面白がらせてやろうかなと思ってるけどね。後は集合論と意識についてちょっと解説を入れようかな。まあしかしあくまで自動的な査読、そうでなければちょっとは分散してないと、不健全なんだけどね。
追記4:論文の再現性が怪しくなっていたり、載るべき論文が本当に偶然載ったように見えるような状況が続いている中で、こういう当たり前の分析まで敵視するんだから、本当に人類というのはしょうもない。そして俺が権威になったら反転してその権威に従うに違いない。本当にしょうもない奴らだ。
知識は共有された方が良いし、共有するには学会や学会誌やウェブサイトなどの場が必要で、その場をまともなものにするには何らかのフィルターが必要、それは合意できる。ただそのフィルターは現実に間違うし、間違った時に間違った事を明らかにする仕組みはやはり必要だろうと思う。
具体的には査読の履歴を公開し、そのミスを監視する団体が複数作られる必要はあるのだろうと思う。
肉を食いながら良い人じゃないという事で悩むというのは、傍から見れば相当に滑稽だろうな。
精神病の人が言う負のループっていうのは、結構俺の思考回路みたいな事なんじゃないかと思わんでもない、人には言えないだけで。
追記:内面がおどろおどろしているのが人間(ホモ・サピエンス)という種なんだっていう、そうは思わない?生物全般が多かれ少なかれそうだと思うけどな。スッピンがブスみたいな話でしょ。
家族会議の音声とかね、どう聞いても俺はアダルトチルドレンで被害者なんだよ。何で公開しちゃ駄目なんだろう、世間的に。
追記:こういう時に公開したり名指ししたりしない場合、全然自分のためじゃないんだよね。でもその結果、大体相手はそこに付け込んできて、なぜか状況はこちらに悪くなる。公開って事で言えば、そういう事ばかりなんだよね。
テスト
https://note.mu/otoimi/n/n5bb64b226c15追記:ん、これで良さそうだな。週一ぐらいでやっていこう。
俺はもう少し議論ができない人にも配慮すべきだったのかな、と思わないでも無い。
でも皆も、もし過去に行ったら、ここが間違ってるよと言いたくなるんじゃないか。いや、天動説と地動説は結構しっかりした議論だったらしいけど。
それを言いたくなって、言って、考えを根本から改めて欲しいと思って。
間違いが分かった以外に、思う事だとかほとんどの事で、俺と他に何か違いがあったんだろうか。
追記:俺は未来では正しいんだっていうしがみつき方も、同じだと思うんだよね。
皆、自分の得意技を肯定してるだけじゃん。
俯瞰で見たらそうじゃん。