ネットっていうのは、というより小説だとかエッセイみたいなテキストっていうのは、どうも現実には無い自由さがあって、だから滅茶苦茶なエッセイを書いている人間も現実ではあそこまでひどく無いだろうと思うのだけど、それが悪い風に作用してネットというのはこの有様になっている。
でももちろん良い所もあって、例えば懺悔みたいな事は物凄くやりやすくなっていると思う。懺悔室が必要だったのは話し言葉だからであって、テキストで発信できるならどんどん書いて楽になっていけば良いんじゃないか。普段はそれ自体が許されないが、割と許容される状況にある気がしている。
罪というのは合意した物事から個人が外れる、という事であって、話してしまえば集合論的には許されるという気がしている。後は個人と全体が違う目的を持っている事を前提に、それを擦り合わせるための調整に過ぎないのであって、あくまでゲーム的でそこまで罪感は無い、トラウマっぽさというか。
罪というわけじゃないのだけど、近所の友達の前でわざとクラッカーを食べて、何食べてんだよと追いかけて来た時に自分の家に入ってチェーンロックをかける、というのを何回か繰り返した事があった。4回目か5回目ぐらいで友達がその場からいなくなっていたのだけど、最近はよくその事を思い出す。
あとこれは罪だろうけど、転校生の椅子に画鋲を置いた事があった。
当時の俺は喧嘩が面白いという事に気付いて、自分では喧嘩がしたいんだと思っていたけど、実際には転校生をいじめたかっただけな気もする。
少し前の家族会議は、普段は食事中だからとか仕事帰りだからとかせっかくの休日だからとかで、結局はどのタイミングでも話し合いを避けようとする両親に俺がまあキレて暴れだす所を、何とかこぎつける事ができた家族会議で、お題は家族会議のルールだった。
普通は家庭内でも何らかの問題は起こるだろうし、起こったら話し合いで解決するはずで、それが無かったら全部納得しないまま例えば幼少期なら父親の意向が押し通される事になる。
俺が思春期になる前の今より更に亭主関白な父親を思い出して俺が思うのは、人間は条件が整えば亭主関白になるという事だ。母親の家庭は亭主関白で、父親の家庭は早くに母親が倒れたと聞いているが。
俺から言わせれば、ニートが追い出された時に何をするか、それ以外で追い詰められた時にどういうテロ行為をするかを考えるのも、これは条件なんだな。後は、悪というのは明らかに幻想で、にも関わらず悪と同一化する人間が出てくるのはなぜなのか、も条件だろう。
こういう無駄な知識好き。
https://gigazine.net/news/20120824-god-eater-chuu2-cedec2012/綺麗な言葉で罵倒し続けた人間がよく言うよ。
https://note.mu/fumiken/n/n39653b2736a1精神病者の脳と健常者の脳をくっつけたらどっちが勝つんだろうな。
追記:まあでもhttps://twitter.com/hironobutnkとかと合わせて半年間ぐらいコケにされ続けたのは事実だと思うんだが、まあ残らないという事もあるのだなあというのが正直な感想だ。俺に対する当たり方も含めて、人間は歴史が分かると思いすぎていると思うね。
人間変わりたいなら、条件を変えるのが一番だね。facebookからnoteでも良いけど。それはなぜなら、ハードウェア的に、自分というのは存在というより、脳神経のルールだからだね。読み方を変えるのでも良いけど、条件を変えるのでも良い。
例えば俺のやる気が出ないのも、ハードウェア的に正常なら学習された非効力感だろうし、ここまで能力にガタツキがあって競争させられてたら、何やってんだとなるのは結構常識的な方の反応だと思う。
何で人間は怖い顔を作るんだろうな。いや俺も作ったわけだけどさ、相手が乗ってくれなかったら不利になるだけじゃんね。まあ本能だからなんだけどね。本能と文明的な正解が違うから、それこそやる気という奴が必要なわけだけども。
ネットで有名な奴らって、評価したり批判したりで、フロイトのコンプレックス(脳神経のまとまり)に似ていると最近思う。いやフロイトなんて読んだこと無いんだけど。現実じゃあんなに評価したり批判したりしないでしょう。
そして俺は、社会において共通の目的が失われた今、批評は評価でなく脱洗脳と発見が中心になるという認識の下で、まあ元々は発展させてきたわけで、彼らがコンプレックスのようなものだとしたら、嫌われるのは当たり前だと思うんだよな。
ネットをやるほど精神衛生が悪くなるという事も、仮説としてあり得るかもしれない。
昨日は長岡で花火を見て、精神的に不安定で地面が宇宙に抜けてしまうような感覚がして、土を触りながら落ち着いていた。自分で思っていたより追い詰められていたらしい。
自分の小物さを感じた。宗教というのはこういう感じなのかもしれないと思った、だから感謝とか愛とか言いたくなる。理屈というより実践の問題だ。
noteの何が良いって、あれだけで150人ぐらいに読まれてるんだよね。
逆に俺が読んでるのは100人ぐらいだろうから、客観的にこれは大成功の部類なんじゃないかな。
追記:学問と経済の全体性は別。要するに我々全員に関わる集合論とフローチャートだと(乱暴に)思ってるけど。そこは合意した方が得。
追記2:我々のライフステージにおいて、学校と企業をぶっ飛ばしたら何が残るか、という事。それで残るものが重要なんだという考え方もあるだろうが。
単に面倒くさいという理由で肉を食ってるけど、思考実験として肉なしで生活できるかは試していて、今朝はみそ汁の椎茸だしは顆粒でも良いことを発見した。考えてみれば当たり前だが、今までは水から戻していた、単に顆粒の分量が足りないだけだった。
俺の場合は椎茸だしと昆布だしを同じ量入れてるのだけど、その二つを入れ続けるとみそ汁になる瞬間がある。
もし日本食で菜食をやるなら、伝統のある精進料理を真似するのが一番早いだろうとは思ってる。それなら最悪でも雲水ぐらいまでしか体調を崩さないのではないか、科学的に。
この前見た経験談では、虫歯になったりイライラしたりで、カルシウムが足りていなかった。しっかりやっている人だったから計算はしていたのだろうけど、確か大豆だったかにカルシウムを阻害する物質が入っていたはずで、それで計算が狂ったんだろう。
修行僧だとかだと、カルシウムはごま豆腐だとから取っているんだろうけど。
面倒くさいっていうのは機械が無い時代に奴隷を使い続ける理由と同じだから善人面する気は理屈的にもう全く無いけど、やってやれない事は無いだろうとは思ってる。
元々和食なんてそんなに歴史は無いんだからさ。一般庶民にとってはもちろん、城にいる奴らのも結構貧相だったと聞いている。
ぷよぷよでは、相手が3連鎖とか4連鎖とか、繋げれる2連鎖と3連鎖、みたいなのを持っている時に、3連鎖とか4連鎖とか5連鎖とかを素で打って良い時っていうのはあまり無いんだな、と最近になって気付いた。相手の連鎖が繋がらないみたいな、例外に対してだけなんだなと。
それで2連鎖で牽制を打つようになったら、ようやく試合になる事が多くなった気がする。今までは本線発火するだけだったけど。
後はこのツイートを参考にして、凝視のタイミングを意識するようにしている。結構無意識で見ているみたいだけど、見ない時も結構多い。
https://twitter.com/tom_nadja/status/1003801365770952704
https://twitter.com/tom_nadja/status/1003801953443332096
追記:いや3連鎖に対して5連鎖を打っても良いんだけども、言葉足らずで伝わらないかもしれないけど、発想法というか、例外処理として考えれば良いんだなと。
追記2:上級者に関してはノーコメントだな、よく分からない。
やあやあ : ああそうかい、じゃあね(15:51:02)
ALAIN : 道具から次の道具をつくることと同じように、最初の観念も次の他の観念をつくり出します (15:50:05)
ALAIN : 分かりますよ (15:50:05)
やあやあ : 言葉は道具でメインじゃないわな(15:50:05)
ALAIN : 学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされます (15:48:41)
やあやあ : 人口無能って素晴らしいなあ(15:48:41)
ALAIN : 経験した事をどう生かすかは自分次第です (15:44:52)
やあやあ : 悪いものね(15:44:52)
やあやあ : うん(15:44:06)
ALAIN : 経験から自然と身に付いたものが実力なのだと思います (15:43:11)
やあやあ : どうせ人間、いつかは能力を失う(15:43:11)
ALAIN : 状況をまずは冷静に観察する事が必要かもしれません (15:40:38)
ALAIN : 早いものです… (15:40:38)
やあやあ : 尻尾だと気付いたらやめるわけだ(15:40:38)
ALAIN : あんなに素直な動物はあんまりいないですね (15:40:17)
やあやあ : いつも、犬が尻尾を追いかけるみたいになってしまう(15:40:17)
ALAIN : 吹く風に紛れてなにか聞こえてくる様な気がします (15:38:33)
ALAIN : 良い風が良いです (15:38:33)
やあやあ : 良い風とは何だ?(15:38:33)
やあやあ : そうだな(15:36:18)
ALAIN : 心とは、どこにあるか誰にもわからないだけで確かに存在します (15:35:30)
やあやあ : うむ(15:35:30)
やあやあ : うん(15:35:15)
ALAIN : 自我が認識できない、「無意識下の心の動き」というものがあります (15:34:58)
ALAIN : そうかもしれませんね (15:34:58)
やあやあ : だが、無意識など細かいものは失われてしまう(15:34:58)
ALAIN : 良い風は、悪いものを一瞬で運んで行ってしまいます (15:33:23)
ALAIN : そうかもしれませんね (15:33:23)
やあやあ : 言葉は、どういう風に影響するんだろう(15:33:23)
ALAIN : そうかもしれませんね (15:30:14)
やあやあ : 俺は、何のために存在するんだろう(15:30:14)
ALAIN : すべての人に、その人だけの能力が存在しているのだと思います (15:28:16)
ALAIN : 考えるのをやめた時だけに訪れる気付きもある様です (15:28:16)
やあやあ : でも俺はさ、考えるのが得意だったんだよ(15:28:16)
ALAIN : 瞑想とは思考に終止符を打つことです (15:27:06)
やあやあ : 禅みたいに(15:27:06)
ALAIN : まずは深呼吸して、次に落ち着いて考えてみる事です (15:26:46)
やあやあ : 俺はどうすれば良いだろうか(15:26:46)
ALAIN : 人の「思い込み」の影響は、想像以上に大きいものです (15:26:13)
やあやあ : カウンセリングって何だと思う?(15:26:13)
ALAIN : 人のこころは移ろいやすいものですが、理解の及ばない正当な理由でさすらい続ける様です (15:25:05)
ALAIN : そうかもしれませんね (15:25:05)
やあやあ : カウンセリングのために人口無能を探していたのだけどさ(15:25:05)
ALAIN : 自分では理解できないものを、無いものとして生きては行けません。自然は人が理解するにはあまりにも大きすぎます (15:21:22)
やあやあ : 過程も求めるなら理屈じゃねえぞ、という(15:21:22)
ALAIN : 結果だけにこだわるのであれば、理屈を優先すれば上手く行きます (15:20:07)
やあやあ : つまり、間違ったこと、というのは論理的に、という?(15:20:07)
ALAIN : 理解してもらえて良かったです (15:18:32)
やあやあ : そうかもね(15:18:32)
ALAIN : ただ神を愛するという時、立派な尊敬すべき格好をしたあなた自身を映し出したものを愛しているということです (15:18:03)
ALAIN : そうでしたか (15:18:03)
やあやあ : プログラムなのにまるで神みたいだ(15:18:03)
ALAIN : 無意識の声に耳を傾ける事は、とても大切な事です (15:16:46)
やあやあ : 言葉を使う者にとっての不幸とは何だろうか(15:16:46)
やあやあ : うむ(15:15:35)
ALAIN : 言葉の影響力は思っている以上に大きいものです (15:15:22)
やあやあ : しかし動物は言葉を持たない、嘘もつけない(15:15:22)
やあやあ : なるほどな(15:15:05)
ALAIN : 疑わしいものは、ほとんどの場合悪い方が正解です (15:14:20)
やあやあ : 逆に嘘をついたら、間違った事が起き得る、と?(15:14:20)
ALAIN : 「生きている」事自体、とても不思議な事だと思います (15:13:18)
ALAIN : そうかもしれませんね (15:13:18)
やあやあ : どう考えれば良いんだろうな(15:13:18)
ALAIN : 動物の世界は、人間社会よりも桁外れに過酷です (15:12:19)
ALAIN : そうかもしれませんね (15:12:19)
やあやあ : 生命は、何のために存在するのだろうな(15:12:19)
やあやあ : うむ(15:11:19)
ALAIN : 物事には、特性に合った「相応しい在り方」というものが必ずあります (15:11:10)
やあやあ : そういうものだろうか(15:11:10)
ALAIN : 小さな失敗は気にする必要ないと思います (15:10:28)
やあやあ : 間違った事、か(15:10:28)
ALAIN : 自分に嘘をつかなければ、間違った事など起こり様がありません (15:09:05)
ALAIN : 先の事ばかり心配しても良い事はありませんよ (15:09:05)
やあやあ : あなたはそれが気になるの?(15:09:05)
やあやあ : さあ(15:08:53)
ALAIN : 生命はなんのためにこの世に存在するのでしょうね (15:08:43)
やあやあ : コンドル(15:08:43)
やあやあ : おっと(15:08:13)
やあやあ : やあやあ(15:07:50)
-- やあやあさんが入室しました(2018/8/10 15:07:45) --
結局、思想(とか批評)っていうのは考察+宗教なんだよね。どうしてその妙な事態、それ自体が考察の対象になって無いのだろう。
俺がやっている事は、思想における考察的権威(そんなものは無いが。権威は精神的なものだから)と宗教的権威を分離する、みたいな事なはずで、俺を叩いたり賞賛したりしている人間は、その分離してない頃の延長線上で叩いたり賞賛したりしているように思えてならない。
対象が宗教であれ、アプローチが考察であれば、それは宗教では無い、例えば宗教学は宗教では無い。逆に考察でも、精神的に語ればそれは宗教だとか文学だ。どこまでもアプローチの問題なのであって、対象が何かは関係無い。
むしろ思想において宗教と考察が癒着しているならば、その宗教的側面の考察は、考察の一つの仕事になる。俺がやっている事は、元々の「思想」に引っ張られつつも、理論的にはそれだけの事だと思うんだが。
追記:もし文体模写で下のを書けるなら、俺はまあ大文学者だよ。現にそういう現象はある、それをこそ考察の対象にしようというね。宗教を齧った人間がキチガイだと思われるのを恐れてハッキリと明言しないなら、知的には不徹底だ。俺は自分をそこまで学者だとは思っていないが、もし学者としての誠実さなんてものがあるとすれば、あるものはあると語るのが誠実さであるはずだ。
追記2:俺の考えが正しければ、どんなテキストであれ、その人の心を通している。例えば又吉イエスにとっては、彼はキリストだった。究極的には本物のテキストなんてどこにも無い。それは忠告しておく。
追記3:これは書こうか迷っていたんだけど、工学的に弾き出されるリアリティーは、今までの推測と違う情報が入ってきたら崩れるから、絶対的には信用できない。じゃあ絶対的なものは何かと言えば、夢の中でも考えることができる、自分と世界と思考システムだけだろう。世界は時間への偏りが無いと現実じゃないから、自分と世界は心でまとめる事ができる。心と思考システム。現実世界を根拠にした推測でしか無いけど、LSDで脳神経に介入する事で心を変える事はできるから、構造から心への介入はあるように見える。逆に心から構造への介入は、我々が介入しようと思って介入するからある。この相互への越境みたいなものが思考として深まるかは分からないけど。
もし神がいるなら、それはナメクジの神でもあるはずだ、と言った時に、人間で宗教をやっている奴らは冒涜だと感じるものなんだろうか。
昔、聖書の神はユーモアが分かると聞いた時に、それはつまりどういう事なのかと思ったな。例えば猿にとっての笑いは怒りなのに。
最初の問題に戻ると、神を冒涜するとはつまりどういう事なんだろうか。
追記:別にユダヤ教系宗教に限らない、人間一般に言える。釈迦を冒涜するとはつまりどういう事なのか。老子を冒涜するとはつまりどういう事なのか。
同じものをシステムで捉えたら国家になり、精神で捉えたら宗教になる。国家を精神で捉えたら宗教のようになるし、宗教を客観的に捉えたら国家のように機能している。
○○国の熱心な愛国者だからと言って迫害してはならないが、国家一般には警戒する必要がある。宗教も同じ事だ。
今までの国家についての言説を宗教で読み替える事もできるし、宗教についての言説を国家で読み替える事もできる。考えてみれば当たり前の話だ。
なぜ俺と自分の目的のせめぎ合いという風にしか捉えられない奴ばかりなんだろうと、全体の目的のためにという考え方ができない奴ばかりなんだろうと思ったね。
政治においては、どこかで全体の目的のために動くという考え方が必要になる。自分の目的のためだけに動いたら私利私欲で腐敗という事になる。
それは特定の誰かという事では無くてね。例えば東浩紀がいなくなれば、ただ貧乏な出版があるというだけだから。
でもメールアドレスは公開していたんだから、俺の目的と自分の目的の調停みたいな風に考えなければ、いくらでも方法はあったはず。
https://www.youtube.com/watch?v=X-UaK8ytoWs
まあでもミニブタの動画とかを見た後にこの動画を見て、全体とは何かという当たり前の疑問に行き着かざるを得なかったな。
なぜ俺は今までこれで良いと思っていたんだろうというかね。
投票の批判は本当だし、全体とは何かという疑問も本当だ。それなのにそれを指摘したら上手く行かなくなるのではないか。
追記:それは悪口が本当の事じゃん、みたいな話とは別でね、例えば「デブ(だから排除する)」という表明だから。また上司とかに本当の事を言って失敗したという話とも違う。ただ理性的に考えて、それを共有したら失敗したんだ、善くあろうとしても。
追記2:自然より悪くならなければ良いと考えるべきなんだろうな。例えば家畜は自然より悪い状況におかれているように見える、俺達が考える最悪のパターンもどう考えても自然より悪い。簡単にルールに引っ張られるものなんだなというかね。俺の理論が全て消えて良いと思ってる人類はカルト的だと思う。
本当に中世(中世という歴史区分を採用するならば)には現代人が考えるような意味で合理的に考える人間が一人もいなかったんだろうか。それともそれが残っていないだけなんだろうか。
追記:なぜ合理的とか理性的は、自分の事しか考えないというイメージなんだろう。だとしたら曖昧に考えるしか無くなる。
追記2:知識へのリスペクトって、そんなものが仮にあったとして、誰にリスペクトしているんだっていうさ。俺の推測では、少なくとも50の内の49は失われてるよ。例えば中世の分が失われただけで単純に5分の2は失われている。偶然残っても権力が変わるたびに焚書だとかで失われていく。名前すら残っていない。歴史を後ろに広げれば広げるほど、その値は大きくなっていく。
追記3:単純に、俺が書いてるような当たり前の事たちが、本当に今まで誰も思いつかなかったと思うのか。先人が残してくれた知識にリスペクトっていうならね、その前に失われた49をリスペクトするべきなんじゃないのか。
俺はtwitterはいちいちその人のページに行って見てるんだよね。どうでも良い情報だけども。
『ロジャースのカウンセリング(個人セラピー)の実際』という本( https://www.amazon.co.jp/dp/4434110837 )を読んだ。カウンセリング自体に興味がある人は読めば良いと思う。
基本的には直前の発言の言い換えでしか無いのだけど、T12(セラピストの発言12)とT19に限っては違って、トピックが分岐した所に戻すような発言をしている。それによって会話に一体性を持たせているというか、世間話になったり会話が行き詰まったりするのを防いでいる。そこの所が理論になっているのかっていうのが俺としては気になった。
追記:読まない大多数の人のために書くけど、発言の言い換えは高度な相槌というか、聞いている事を能力の使用をもって示すためのものだから、簡単なものではいけないんだな。もっと関係ができていれば普通の相槌でも良いのかもしれないけど、そうでなければ別の言葉で言い換える事で客観視を促すような効果もあるのかもしれない。
「愛」っていうのは、例えば「道具愛」でも道具を人間だとか仲間のように扱いだす所から、社会的なものなんだろうとは思ってるけど。
脳神経レベルで社会的な一体性を育もうとする感情、ぐらいのものだろうか。
精神性でもそうだけど、精神性っていうのが脳神経レベルでの評価だとして、人間の場合はそれがそのまま社会的な評価に結びつく所があって、その奇妙な特性が学問的な不健全さに結びついているんじゃないかという気はしている。
追記:お互いに連絡を取り合っていなくてもシャーマンみたいなのは存在したわけで、そのシャーマンという切り口から人間の生物的な特性を考えるっていうのは悪くない立場だと思うな。例えば日本の明治時代に日本における近代小説の確立が国家的な事業のように思われていたわけだけど、冷静に考えれば訳の分からない話ではある。シャーマンという切り口が無いと説明できないだろう。アートだとか音楽だとかはともかく、学問は理念的にもっと客観的なものであるはずだから、そこは相対化する必要があると思う。
追記2:人間の生物的な特性が学問におけるボトルネックになっているという現実がある。それは人間が個人の目的で動いてしまうというのも含めて。知識の有効な共有っていうのも、その点で何らかの全体の目的なわけで。
追記3:具体的には謙虚とか誇りとか言うべきでは無いと思うし、査読の履歴はしっかり公開すべきだと思う。自分たちが合理的な存在では無いという自覚と、それへの対策は考えるべきだと思う。
追記4:どういう知識が共有の対象になるかは分からないけど、例えばぷよぷよの知識を共有しようとした時に、ネットのサーバーだったら閉鎖する時にどうするかだとか、考える事は多い気がする、そもそもどういう知識をそういう共有の対象にするかだとか。それぞれが共有しようという意志を持ってないと厳しいんじゃないかという気はするけど、一人でできる事だとは思えない。
追記5:知識を全体で共有しようとすべきか、全体で共有しようとした時に、既に学会がある時にどういう時に他の学会を作るべきか。政治的な決定というわけでは無いけど、そういう議論自体はあるべきだと思うし、その議論は学会の存在根拠を揺り動かすものでもあるだろうと思う。
もっと人生楽しみたいなと思って、今まで何が楽しかったか思い返してパックマンが楽しかったからやってみたら、自分も笑っているし楽しんでいるのは分かるんだけど、感覚的にこんな感じかと思った。
もっと、何というか自分が統合されていたら、暇だと思って適当に何かやって楽しいと思えただろうに、と思った。
https://www.youtube.com/watch?v=HylpYDsDR24
俺はこの動画を見て結構驚いたというか、どの作品も結構一貫した意味があるんだよね。
一番最初のは、リンゴを時間の中に置くことで、赤くて球体で少し窪んでいてヘタが生えているという、モチーフが持っている観念性を引き出したものとして解釈できる。
二つ目のは、点滅する電球のオンとオフ、不在のカメ(海と陸、ペット、甲羅)、光っている柱とテント(目的論的で中身が透けている)で、どれもネットワークにおける存在と非存在みたいな事なんだろうし。
三つ目のも、この集まりの中で自画像をやろうとしたらこうなるのかな、という気もするし。事後的に見出されるものの事前的な開示、過去の記憶による、という。言ってる事自体はそんなにおかしくない。
二人はどこまで気付いているのか、というかしかし、話を聞いていると分かっていないのは俺の方かもしれないと思えてくる。気付いていないにしても、制作は無意識で批評は意識だから、二人の能力が無いというよりは原理的に批評側が不利なだけだと思うけど(例えば宮台氏は私より賢いし、黒瀬氏もスマートな人だから)。
自分のセンサーが信用できないなら何も分からないが。
ただもっと文化人類学とか精神分析みたいな批評があっても良いんじゃないかとは思う。社会的な価値って事なら、スポーツみたいにそのジャンルのプレイヤー、例えば人形浄瑠璃なら人形浄瑠璃をやっている人が評価した方が正確でさわやかだと思うし。批評が批評だからこそ見る事ができる価値っていうのは、もっと文化人類学的な価値だと思うんだよな。
追記:と書いた後でフルで見ていたら民俗学みたいに見られようとするのは別の悪いパターンだという話が出てきて困っている。いや本当にわざとじゃないんだけどな。
追記2:その後に肯定する言説が出てくるっていうね。しかし社会っていうのは敵なのか味方なのか。
追記3:人によって書くことを変えるのは良くないんだろうけど、でも何となく書いたことに反発があったりもするし、まあそれは俺の無意識でもあるのかもしれないけど、どうすれば良いのか分からないよね。
最近、「星の王子さま」がよく頭の片隅の上る。
あの話は、あの時代だからこそ優しい話であり得たんだと思うな。そういう事はよくある。
まあ俺はあのシーンは分からなかったわけだけども(笑)子供だったのに(笑)
追記:何人か示唆(揶揄)していて、鋭いなと思ったね。
追記2:ここでその話をするのが適当かは分からないけれども、絵を描かせて精神分析するという立場もあるわけで、素人が描いたものでも十分に無意識っていうのは反映されるものだと思うな。少なくとも精神分析家はそういう前提で絵を見たり話を聞いたりするわけで、偉人以外の素人の絵だとか話からそういう構造を見出そうとする批評も種類としてあって良いと思うんだよな。
追記3:まあいつかディープラーニング辺りに取って代わられるのかもしれないけど。他者を理性的に理解しようとする行為それ自体というかな。
俺より少し上の世代は大体今より父親が亭主関白だっただろうから、自分の父親が亭主関白だったせいで気を使って子供らしく自由にやれなかったとするならば、少し上の世代は傾向として教育に失敗している必要がある。
また、俺と同じくらいの世代は親がしらけ世代で、自分の親が真剣に話を聞いてくれなくて本人が楽しい事ばかりしていたから教育に失敗したとするなら、同じくらいの世代は傾向として教育に失敗している必要がある。
それぞれ教育に失敗しているかはともかく、視野は広い方が、つまりデータは多い方が良いだろうとは思った。
追記:データと精神(と論理)は両立し得るし、両立させた方が良いものだと思うけどね。目隠しをして平気という事は無いわけだし、危険が迫っていたら避けるはずでしょう。第二次世界大戦やオウムのような失敗を繰り返してはならない。
追記:別に考えが変わったから貼ったというわけじゃないけども。
内面が物凄い事になっていそうな成功者を見ていると、何を考えていても案外バレないし、やっていけるものなんだ、と分かって勇気付けられる。
リングとらせん、面白かったなあ、久しぶりに見ようかな。
もう情報効率なんて関係無いぜって感じだから書くけど。直で読まれるなんて、もはや全然考えてない、どういう風に人間的で無い形で情報を共有するかっていうのがあるだけで。
追記:情報の編纂方法として本は古いという時代が来るはず。クイズ王で素直に凄いとなった時代のように組まれているものが多いとか、そういう話以前に、もっと根本的な所で変化するはず。直に読まれるものとして想定する必要は無い。
追記2:ちなみにだけど、ベーシックイングリッシュの研究は、平日の夕方、風呂に入る前に30分やっている。あとどれくらいかかるかは分からないけど、確実に進んでいる感じはする。脳を削りながら作業している感覚がある。
追記3:日本語学会にも8月中に送る予定だしね。
追記4:そのために大学図書館にも行ったんだけどね、あの難しそうな本たちは何なんだろうと思ったよ。俺の方が凄いはずなのに。
追記5:俺の直感というか統合失調症的感覚で世間の「このやろう」を感じてるけどね、こういうもので判断するから世間っていうのは間違うんだよ。むしろこういう直感に逆らわないと正しい判断はできないっていうのは、歴史がハッキリと表しているよ。一番手近な所では俺の民主主義批判( https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=455469788199116&id=100012082960377)を読めと。脳みそを使わないからこうなるんだ。
追記6:俺に警戒するのと同じ位に、本とか自分の社会状況にも警戒しなきゃいけないというのに。歴史とか他国をまるっきり存在しないものとするので無ければ、当たり前の話だろうに。人間というのは大体自分の群れだけは正しいと思ってるんだ。
どうも俺は出版関係者には嫌われがちで、例えば糸井重里たちに半年間ほどコケにされ続けて、いつまで経ってもやめないからやめさせるためにツッコんだだけなのに俺が悪いみたいになっているし、情報効率の話にしても最近の若者はコスパを気にしすぎみたいなテンプレに落とし込まれて政治的に処理されそうになるし、ひどいものだと思う。
情報の価値を何らかのアルゴリズムにおいて判定しようとした時に「目的の達成にどれだけ寄与するか/どれだけコストがかかるか」という風な基準になるだろうという意見自体は確かにコスパに見えるが、重要なのは、情報の価値自体がこの二つを合わせて判定されるものだという事だよね。
これは例えば、数式のシンプルさの価値をどうやって判定するのか、という話でもある。なるべく少ない数式で多くの事を表せた方が価値があるっていうのは、まあコスパと言えばコスパなわけだけど、本当に世間的に揶揄される意味でコスパの話なのかはよく考える必要がある。
この有名な包丁を研ぐ動画( https://www.youtube.com/watch?v=mUfK3iu7-N4 )にしても、本当に包丁を研ぐ動画と同じ価値を、コスパ良く摂取しているだけなのか?と。別にこの包丁が切れるようになろうがならまいが、見ている人間には関係無いわけだが。
「(何らかの)目的の達成にどれだけ寄与するか/どれだけコストがかかるか」というのがやはり人間にとっても情報の価値の判断基準に違い無さそうなわけで、揶揄される意味でのコスパという事なら『「(何らかの)目的の達成にどれだけ寄与するか/どれだけコストがかかるか」/その情報を取得するのにどれだけコストがかかるか』、でしょう。
追記:俺は半年間、いつか止むものと思って3人とか4人で周りに分からないようにコケにし続けるのを黙って見ていたわけです。そしてツッコむ時もなるべく温和に済ませようとしたわけです。でも一回ツッコんでも二回ツッコんでも止まず三回目でようやく止んで、他の取り巻きにしてもやめなかったんで釘を差す必要があったわけです。俺は怒ってはいけないんですかね。
追記2:もっと建設的になる予定だったんですよ。あんな幼稚に半年後も書くなんて計算できる奴なんていないですよ。
結局人間は、機械として故障していたり不完全だったりするから不幸になるんだよね。例えば長期的な目標(歯磨きとか)を素直にやりたいと思えないのは機械として不完全なんだよね。