まあ俺はやっぱりクズだと思うんだよね。
クズみたいなことを考えて、「俺はクズだ…」→「でもクズだから何なんだ?」というのが頭の中でお決まりだしね。
響きというか感じとか影響を損なうような気がしても、しっかり言い切っていかないと駄目だなと思った。これからはそこを気をつけていこう。
しかし、いよいよユークリッド幾何学か。不安だ。失敗したら、勢いづくだろうな。まあ失敗しても、ベーシックイングリッシュ理論と同じで方針自体は正しいはずだから、このまま続ければ良いわけだが。
普通だったら計算量が壁として立ちふさがるはずだが、俺の研究の枠組みだととりあえずそれは無視できる、後回しにできる。だから、普通に考えれば大丈夫だと思うが。
素朴というかな。ソクラテスとかキリストとか釈迦みたいなパターンになるのが一番下らない。犠牲者というかね。まあアインシュタインの死ぬ時の死体が崇められるんじゃないかという懸念のように、杞憂だと思うが。
まあ方針の正しさについては確信している。極論失敗しても良い。局面が決まったと思って周りに叩かれるのは何度も経験している。決まってない局面だから判断することに意味があるのにねえ。小学校でそうだったみたいなことが起こる。いや、俺の地元は比較的平和だったがな、おそらく人間の共通体験としてあるはず。
まあ俺はクズだと思うよ、クズじゃなければ見ないアカウントばかり面白い、昔からね。しかしだからこそ、成功したら面白いだろうな。いわゆる思想や哲学は終わるんじゃないか。言語論と数学基礎論になって、西洋哲学は東洋哲学と同じ捉えられ方になってしまう。
これからイスラム教徒や中国人やアフリカ人やインド人が増えていくから、人間のズルい所で、ゆっくりと歴史が書き換わっていくはず。アートも、俺の理論が出れば、政治的に正しくないということになるはず。例えば美といえばアーティストが出てくるが、本当に歌舞伎だとか民族的なものの美が分かると言えるのか、なぜ今まで見ないようにしていたのか、という具合。そういう書き換わりが、今までも人間が続けてきた営為なわけだ、現に。
第二次世界対戦のことを言っているわけでは無い。日本人もこれだけ叩いているわけだからね。日本人がやったということについてリアリティーがわいてくるでしょう。まあ俺は人間が語る歴史は何であれ信じないけどね。でも日本人はやったと思うよ。
日本人っていうのも、まあ俺は無意識で刻み込まれてしまっているわけだが、小学生を見てると、人間っていうのは本当はどうかなんて本当はどちらでも良いと思っているんだろうなと思うよ。俺を見てるやつも、消えてほしいと思っているやつはいっぱいいるだろうね。
ちょっとこのアカウントどうしようかな。最初ネタのつもりだったけど、実際後頭部がハゲてきたりして、本当に老けたのが素で出ただけっぽくもあるんだよね。なんか我ながらバカみたいなアカウントだけど。
いやクズだということは否定しないよ。年老いた自分とか、クズな自分とか、そういう色々な自分を統合するという趣旨だったわけだけど、まあ周りは知ったこっちゃ無いわな。
そろそろ文章の構造を考えたい。文章の練習という側面もあるアカウントだから。読み物としては、ダラダラ続くようになって、繰り返すようになって落ちてるとは思うよ。
何度もやり尽くしたと思って、その度に違う路線は出てきたから、やり尽くしたわけでも無いと思うし。でも、学校の家庭科だとか努力だとか、IQだとか精神性だとか、何でも良いけど、そういう現実にある抑圧している考えを解体して、言語論とか投票批判とか貨幣論とか数学基礎論とか、そういうベーシックイングリッシュ理論に出てくるような言語的なものを残せたらそれで良いんじゃないかとも思うんだよね。自分がクズなのは自分でキツイものがあるけども、無用の用というか、逆に精神性が高いよりは他の人にとって扱いやすいんじゃないかという気がしていて、まあそういうスタンスを出す所も含めて。クズだとは思うけどね、本当に、でも道具としてはそっちの方が良いんじゃないの。
でも俺は人間の自己像のズレっていうのは気になって仕方ないけどね。なんで人間を批判されて自分のプライドが傷つくのか。
今朝になって分かった。ユークリッド幾何学をグラフとして捉える構想は、失敗した。
保育所や小学校を見れば分かるように、人間はクズだ。しかし人間は、群れの中にあってそれを指摘することができない。お前自身は何なんだとか、自分がクズなのを人間のせいにするな、という風な圧力に晒される。だから、俺はこれからも人間はクズだと指摘し続けなければいけない。
人間が人間という群れを信じるということ自体が、個に対して抑圧として働く。人間は群れの他を信じなければ生きていけない、他を信じることは群れのルールだ。そのルールがあるからこそ、抑圧は必然であり、本当は人間はクズなのに誰もそれを指摘できない。
損得で言えば、人間は信じた方が得だ。しかし事実においては、明らかに人間は信じれない。例え人間は信じれたとしても、そういう状況は理論上発生し得る。諸宗教でも、歴史でも、なぜ証言が食い違うのか。そしてなぜ、俺が消えてほしいと思う奴がいるのか。なぜ、歴史上の人物は善人だと扱われているのか。
数学は、今までの方法はリセットして、また自然言語に戻る。問題文と図の写真を載せなければいけないので、著作権で削除されないかが心配だ。
弱者として尊重し、一人前に発言権を得たら知識が足らないそれなのに勉強をしないと叩いて、また弱くなったら尊重する。そんなのは全然尊重じゃない。
弱者という役割での尊重で、どんどん弱さに固定されていく。アンケートを取って、性質を調べて賢い人間が議論して政策にする。そういうコンセプトは俺には気持ち悪い。
弱者だろうが強者だろうが、善人だろうが悪人だろうが同じく尊重されて、とりあえず議論の席につけて、それぞれが落とし所を探ろうという意識を持っている。そうじゃないものは例えば俺抜きでの民主主義でしか無い。
これ、言ったことあったっけか。
普段生活している中でも、普通人間はここを見るだろうというポイントがあって、そこをわざと外すだけで、いつもと違った印象が立ち上がったりするんだよね。これ抽象的な話じゃなくて具体的な視点の話ね。
それだけの話なんじゃないかという気もしていて。その意味で世界の印象は、やはり虫の模様のように無限だと思う。
その無限の印象を、どう取り扱うかという問題だと思うんだよ。もし評価をするというならば、どう評価をするという問題だと思うんだよ。
まあ現代アートも、日本の批評も、そうは言っても伝統芸能みたいなものだとも思うけどね。
海は激戦区だ。激戦区になればなるほど、生物の色は鮮やかになる。人間でも、鮮やかな服は一つの攻撃だったりする。
俺の予想では、宇宙生物は虫ほどグロくない。なぜなら海の生物が人間にとって虫ほどグロくないからだ。虫は人間の天敵だ、海の生物はそうじゃない。
海は人間にとって気楽な場所だ。誰にとってもお母さんのようで、川よりも落ち着く。
まあそういうわけで俺は海が好きだ。
仏教と道教は、別の所で始まって同じような話をしているわけだ。
まあ俺は、宗教の国家的な側面の批判は、義務の一つだと思っているから。
無くそうとするのは違う。それは自国の伝統を無くすようなことだから。でも国家的な側面があるというのは指摘し続けるべき。
俺は睡眠って、大事だと思うんだよなあ。できれば7時間眠りたい所を、それがなかなかできなくて、まあ6時間眠れたら妥協しているけど。
落合陽一氏は別に話している内容は落ちてないと思うし、気力が湧かないだけなら単に寝れば良いだけだと思うんだけど。
ショートスリーパーでも最低4時間は寝るべきだと思うけどな、エジソンも4時間だし。
まあでも俺も落合陽一氏に出会ってから睡眠時間短くなっているし、まあ他人の影響を受けやすい人間なんで、足して割った感じで良いと思うけど。普通に4時間から5時間は寝るべきだと思うよ、そこら辺がショートスリーパーと言っても相場だと思うのだけど。
https://tabi-labo.com/202834/sleeppatternsuccesspeople
俺の社会思想とか政治思想みたいなものは、実はどうやら左翼的にはありふれたものらしくて、目的による社会形成ということをいつも考えている。誰が言ったとか何が根拠かとか、リーダーとか仲間とかそういう根本の社会的一体性というよりは、目的による社会的一体性というかな。他人に強制する気は無いし、本当にテンプレートなようなのだけど、工学が絡む所も含めて。
まあだから、いつか社会を変えたいという奴が出てきて、俺が嫌がっても俺の理論を世に出すっていうのが理想なんだよね。
まあもちろん、他の人間が社会を変えたがっているというのも否定しないよ、落合陽一氏も俺とは違う方向に変えたいのだろうね。
まあただ、俺のことを誤解している人が多いなとは思うね。社会思想的にはどうやらテンプレートだし、俺が探しているのは同志(笑)なんだよね。俺が嫌がっても良い方向に使ってくれるようなね、そういうのを俺は待っている。
まあ昔はそういう感じでグルみたいなのが出てくるのも待ってたけどね、俺を上手くいなしてくれるようなね。
まあでも俺がそういうグルみたいなのに求めているのは確信のようなものだし、そういう確信を与えてくれるグルってどの文明にもいないと思うんだよね。
まあ俺自身は自分で言うのも恥ずかしいけどトリックスターというかね、当たり前だけど少なくともそういうのじゃないぞと。
変なのが出てきても困るから言っておくけど、俺は宗教っていうのは超越と引き換えに国家の言うことを聞けというような取り引きがあるように感じていて、俺は感心しない。
悪人正機でも無い。当たり前だけどね。大乗起信論は捏造されたものだと聞く。宗教論争や歴史の語られ方を見て思うに、人間なんか信じるもんじゃ無い。
実践の場を持てば、根拠が信じるとか信じないとかでは無くなるわけだよね。入門書とか解説は始めてから読むものだと俺個人は思っている。そうじゃないと何を信じるかという話になってしまう。日常的な話で分かると思うけど、不毛だよね普通に。
喧嘩で強い奴が格闘技でも強いに決まってると思うんだよ。とにかく料理でも始めてみないと何を信じるかとか本当に不毛だと思うよ。特に日本のインテリの言うことだけは聞いてはいけないと思う。
型が重要なジャンルはあるのかもしれないが、考えるっていうのは型じゃないと思う。人間は環境に合わせて性格を作っていくわけだけど、漁師みたいなのが一番近いと感じている。いや肉体はひ弱なわけだけど、作業のあり方があれに一番近い。見ていると優秀な研究者はそういう人が多い、作業のあり方が近いからそうなる、とにかくやった方が良い。
俺も昔は自分は頭が良くないと思っていた。知能指数も高くないし勉強も中学数学では誉められるが受験では負ける程度だった。結果が出てから、ようやく後付けで頭が良かったということになった、周りに馬鹿にされなくなった、いや厳密には馬鹿にされるが、傾向として馬鹿にされなくなった。結果が出なかったら、今でも俺は昔と同じで馬鹿にされてるはず。やってみないと適正は分からない、他の趣味とそういう意味では似ている、あれもやっぱり頭の良さだから、卓球とか。
小さい頃のIQが103とかで高校数学が分からなくても全然目はある。逆に勉強ができても研究は駄目だったりする。本当に他の趣味と同じでやってみないと分からない。少なくとも事前評価は当てにならない、俺はそうだった、結構それは普通に言われているらしい。
ダニング=クルーガー効果とか、勉強の話じゃんね。今でも言われるんだけど。俺のやっていることは研究だと思うけど、いかに何の保証も無いか。この文章だって失敗したという文脈で読まれるかもしれないし、そもそも読まれないかもしれない。あいつらは謙虚と言って気持ち良くなっている。成功するべくして成功したと思っている。最初からその形だったと思っている。どうとでも転がり得るということを分かってない。査読の段階で消えた研究なんて無いと考えている。しかし査読の履歴すら残ってないから調べることすらできないという問題なんじゃないか、根本的にこの状況は。査読ミスをケーススタディーでまとめてみれば分かるよ、落ちる時っていうのはいかに無根拠に落ちていっているか、いかに対策を立てようが無いほど査読というものが体系的じゃないか。何となくだから、反省して活かすことすらできないんだよ。
一番ひどいのはミスがあることで無く、そのシステムが無くてミスがあっても分からないし、そんなものはあってはならないあるはずがないじゃないか、自分の問題をシステムのせいにするな、という圧力を今受けているという現実なわけだけどね。そのケーススタディーが積み重なって、はじめてあの書式は何も保証はしてくれてなかったという現実に気付くはずだよ。で、謙虚とは?
俺が今どういう風な扱いを受けているか知らない。もう無視されてるかもしれない。それが良いような気もするけど。
ただ、俺はどこにでもあるような理念しか批判してないんじゃないかな。人間はこう反応するだろうと予想して、反発してたりするわけだからね。
例えば悪人正機も「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から念仏して、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」とか、子供でしょ。なんでこんなの信じちゃうんだろう。中国の伝承でも身長がめちゃくちゃ高かったり生まれたときから老人だったりするし。種としての人間は嘘つきに決まってるじゃん。リアルタイムで歴史論争でも何でも見ているだろうに、なんで人間というレベルで信じちゃうんだろう。
こういう事実に反発する人間という全体のくだらなさ。
子供の頃から一貫しているのに、なぜそれが当たり前だと思って、見ないようにするのだろう。
統合失調症にかかって思考が筒抜けている感じがしてから、常になんだか悪いなあという感覚と生きている。
精神病のキツい所って、自分の思考の内容が人に言えないようなものになることでもあると思うんだよね。当然人に言えないようなことだから自分がかからないと分からない。
なぜ、俺は他人に自分のベーシック・イングリッシュ理論を理解させることができないんだろうな。
分かりやすさっていうのは自分では自覚しにくいものだろうけど、例えば俺のヒープソートの解説は他の人より分かりやすいものなんじゃないかと、思想とか哲学の解説だって他の人より分かりやすくできる方なんじゃないかと思うのだけど、違うんだろうか。
ベーシック・イングリッシュ理論だって、フローチャートを解説して、文の統語法則を解説して、その文の統語法則的に何かを基準に何かを指定する必要があることを示して、一つ一つどの全体において何を指定しているのかを図解して、必要があればコメントを入れていって。それがなぜ、理解されないのだろうな。
理解した上で攻撃してきているわけじゃない。伝わってない上で、胡散臭いものとして攻撃してきている。
数学だって、完成形だけを示すなら、もっと簡潔に示すことができる。例えば前半部分なら、あの既存のプログラミング言語を変化させたようなものを示して、それでいろんなジャンルの問題を記述してみて、問題の本質が計算量を削減するということだと示すだけ。もちろんそれ自体は既存の議論だろうが、数学者は知らないようだし、今までの計算機科学とは違って俺はプログラミング言語をフローチャートと集合論で基礎付けている。今までと比較した単純さに加えて、それだと数学の基礎論になり得る。
後半のユークリッド幾何学だって、もしプログラムにできたら、簡潔なものとして示すことができる。途中過程を晒しているのは、このまま押し切られてしまうんじゃないかという非合理的な感覚もあるけど、ベーシック・イングリッシュ理論の時もあったようなゴチャゴチャを晒すのが事実を伝えることになるんじゃないかと思ったからでもある。いかに適当で、改変可能なのかという。
いや実際には、分かりやすく伝える力が足りないのだろうね。俺は教室の中で必死に伝えようとしている。誰も聞かない。いや、その状況だとしたらむしろ義理の問題なんだろう。文学フリマで、分かりやすい教材を作る。あとは大学に行かないでも何とか論文を通そうとする。
まあ、糸井重里氏が半年間スクラムを組んで悪口を書き続けたということは、事実なのでしっかり指摘しておくよ。そして最初に俺が嘘をついたと思って叩いて、その後も引くに引けなくなって、一年半叩き続けて今も叩き続けている。
まあ教室の経験上、人間というのはそういうものだと思うし、もしプログラムや文学フリマや論文で世に出たら、俺はお前らを許してやろうと思ってるよ。人間というのはそういうものだからね。
しかし重要なのはむしろ、もしかしたら出なかったかもしれないということで、それは査読の履歴を公開しだしたらハッキリ分かると思うけどね。今までの偉人のリストは歯抜けだし、そのエラーの割合で今までの理論も失われていて、そいつは名前を知られないまま死んだのはもちろん、社会だって今とは違うものになっていた。それを示せれば俺は満足だよ。
まあ俺は、うん何というかな、頭の良さっていうのは必要な分あれば十分だと思っているよ。アルゴリズムでも評価する時には、このルートだと確実に目的を達せるという時は、評価を無限と記載したりするのだよね。50でも100でも200でも無く、無限で、確かに1000でもそれ以上でも無く、そう記述するのが正確だと俺にも思える。
俺のことを頭が良くないと書いている人を2人見たんでね、そのどちらかでちょっと語り口は変わってくるのだけれども、まつもとゆきひろ氏は曖昧なやり口が陰湿だししつこいし恨んでいるわけだけど、まあ、そう思っている人はもっといるでしょう。そしてその感じ方は半分以上正しい。俺のこのアカウントは、思いついたら書き足すということをやっているから、アクティブイマジネーションのような所がある。そういう方法で無意識が上手く機能しやすくなっている所があって、だからそういう無意識の符合は賢さとしてはノーカウントだろう。俺のことを賢いと思っている大多数よりは、現実を正しく捉えることができている。
しかし、今別のブログでやっているようなやり口で中学数学までを終わらせて、高校数学も終わらせて、トポロジーとか写像とかを今より簡単に基礎付けることができるか。俺はそこまで終わらせることができればそれで良いし、もうかなりニアピンという所まで来ていると今は思ってるけどね。
目的を持って、文章を構造化してしっかり書けるようになりたいなとは思っている。まあそれを何かに使う気は全然無いんだけどね。
俺は今まで、長い文章はアクティブイマジネーションみたいな方法に頼っていたから。読む側はそっちの方が面白かったりするのかもしれないけど、シャーマンっぽくて不純だからね。やっぱり文章を練習するアカウントでもあるから、そろそろ全体の構成を目的を持ってしっかりやる段階なのかなと思っている。
とか言ったら俺を半年間叩いたようなプロの文章書きが喜びそうで嫌なんだけどね。奴らの存在が文章の技量は人格に結びつかないことの何よりもの証拠だと思うね、文章書きは笑って誤魔化しそうだが。
あるいは、糸井重里氏が本当にやってないと思ってるのかね。まさに教室の再現、歴史の再現だわな。何なら俺自体が消えそうになっているわけだからね、理解できるような理論もいくつかはあるだろうにな。
東京の文学フリマに参加する予定で、金沢文学フリマに持っていったものをそのまま持っていく。あらかじめ言っておくけど、もし俺に会って意外に思ったなら、それは自分の偏見を表しているだけで、その上で俺の文章を読んだら、その人間が書いたようにも読めるはずだよ。昔から匿名でも気を付けているからね。今からだって、そう思って読みなおせば、そう読めるはずだと思うけどね。
むしろ俺に向かってそういうことを言う人の方が現実で言えるのかと思う。言わないから生き残っているんじゃないのか、いや無論社会の中で。
人間は信じられないと指摘することがどう機能するかは分からない。ただ、事実であることは確信している。
少なくとも、生活のために人間を信じるべきだ人間が人間を疑うのでは社会が成り立たないという人間と、一般的に証言が食い違うし人間は信じるべきではないという人間の、両方が必要なのではないか。
人間を信じると言っている人の人間とは果たしてホモサピエンスのことなのか。そしてホモサピエンスで自分の周りのことを信じてない奴がどれほどいるのか。
状況に最適化したら、国だとか周りは信じて他は信じないということになるのではないか。
歴代のホモサピエンスを信じると、論理矛盾を起こすのではないか。存在を信じるというならそれも良しだが、その場合でも情報は疑う必要がある。人間はこういう時に笑うもんだ、そしてそれを指摘されたら怒るものだ、次には冷静になって状況において勝とうとする、そしてそれがホモサピエンスだ。
どんな価値観と戦っているように見える時も、俺は教室の中の人間と戦っているんだ。どの価値観を掲げるかなんて関係無い。そんなものはサインでしかない。
俺は人間の余裕と迫害の使い分けを忘れない。
国内でもポストトゥルースで意見が対立しているのに。
なぜ人間は信じれないという意見が受け入れられないのだろう。教室内でもどこでも普段から散々経験しているだろうに。卑劣だ、そしてその卑劣さも本当は多くが教室内や普段で経験しているはずなんだ。
いや俺の地元は比較的平和だった。大人と子供の違いは、一つは理性の発達具合だ。理性が弱れば、大人になっても子供のような面が顔を出す。そして大局的には、その無意識は隠せていない。歴史論争は教室で経験済みだ。対立は教室で経験済みだ。
俺はプログラムを動かす。そして本当だったら消えていた他の理論と一緒に、この意見を教室内に広げる。なぜ、教室と同じだということに気付かなかったのだろうか。
文学フリマに持っていったものは、あるいは持っていくものは、デザインはされてないが、十分な解説だ、あるいは俺が十分な解説だと感じるようなものだった、あるいはものだ。
論文だって、俺は論文とは何かを調べて、特に最初のはルール通りに書いたものだった。
卑劣な人間は、そういう一つ一つの行動を認めない。論文しごきをしておきながら、一方で俺が真面目にやれば大学無しで論文を通せるように語るだろうよ。あの時俺は通せたのに俺がそれをやらないとして、俺がどう得をするというのだろう。実際には、特に最初のは、ワクワクしながら待ったもんだよ。後の奴だって、正しい理論だということさえ伝わればと思っていた。でも返ってきたのは統計を使えというオーダーだったわけだ。
少なくとも、ベーシックイングリッシュ理論を論文で記述するのは不可能だ。統計では無いからだ。どうすれば論文として記述可能なのか、全てが終わった後でやってみてほしいもんだよ。それがどうして論文なのかという説明と一緒にね。その例外が致命的だとなぜ分からないのだろう。なぜ自分の方が俺より論文を理解していると思っているのだろう、正に論文の正しさの根拠だと思われているものこそがフローチャートなのに。
そして、統計は正しさを保証しないという状況証拠もいくらでも出てきている。もう本当は論文の正しさの根拠だと思われていたものは転倒しているんだよね。前提から機械的に弾き出せるものでは無いし、もしそうなら本当に機械で弾き出せば良い。不可能にしてもなぜ現段階の機械では不可能なのかという理由が必要、少なくとも明らかにしようとする姿勢は必要。それが論理的ということだからだ、フローチャートを操る機械はもうある。それを説明できない所は、だから論理式とか論文とは関係無い何となくなんだよ。
複数の観点から照らし出すっていうのはね、それは論文が持っていた正しさの根拠とは別種の何かだね。前提から弾き出しているわけでは無い。むしろ目的とか対象の問題だ。
論文の問題を解決して終わりではいけない。また同じような展開をくり返すからだ、今まで同じような展開は何度もくり返している。人間を疑う所までいかなければならない。例えば投票とかだ。なぜ投票はアンケートと同じなのに、意味があると思って行っている?これは結構大きな問題なんだよ。何が大きいって、なぜ人間は分からなかったのかというのが大きい。そこをハッキリさせる必要がある。その問題に取り組まなければならない。
いや、俺は上っ面を掠め取ってなんかいない。俺がいなければこの展開にはなっていない。低学歴で精神性が低く田舎出身である程度開けっ広げな俺がいなければ、人間をここまで強烈に疑うこともできていない。
世界に対して罪悪感を抱くこともあるが、しかしよくよく考えれば、他の行動より今の行動の方が良かったりするんだから、仕方ない。予定調和とか最善とかは信じないが、しかし俺はこのあり方でいた方が良かったと俺は思う。
例えば他人との関係がここまで悪化し得るのはなかなかいないし、その上で世に出た後も、まあ仕方ないか、という風な扱いに批判している人がなると考えると、俺の性格というのはかなり良い線行っていると思う。
楽しいっていうのは、焼きなまし法と関係あるのかもしれないな、いや俺は具体的な焼きなまし法の内容を知らないのだけど。あえてランダム性を取り入れることで学習を大きくするような。
既にあるフローに乗るだとか、即興のクリエイティブとか(、破壊も入れるか?、いやでも交換もあるかもな?)、ゲームだとか、あるいはブラブラ移動にしても、目的への制約ということを考えると楽しくないんじゃないかな。しかし人間の動作っていうのは、当然その制約や評価とセットなんだよね。
その焼きなましのような場があることで、美つまり評価もより意味を持つような感覚がある。
いやこれは多くの人が話すことと同じだが。
出先で美しいもの面白いものを探していると、ちょっとがっつきすぎかなと思うことがある。別に思わない人はそれで良い状態だと思うけど。その焼きなましの感覚を大事にしたい。みんな同じようなことを言うわけだけど。
まあ追記になるけど、楽しさがよく分からなくて、で自分は暇だし一生追うことになるのかなと思っていたから、意外と活路が見つかったというか。
プログラムだと、評価と探索は違って、その探索の学習にあたるのかなと思わんでもない。評価が美しさだとしたら、意外とその二つはセットということになる。
まあ探索というか行為というかね。でも俺は制約で考える人間だし、それが利点にもなっているわけだから。この記事は、だからそういう自分への方便というかな、制約という考え方をした上でも焼きなましは必要なのだというようなね。ちょうど今だと数学と楽しさのどっちを取るかというジレンマが自分の中であったわけだけど。
ちなみに、こういうことは書かないと伝わらないものだと思うから書くけど、俺は批評は評価をするものだという定義は、間違っていると思っている。批評は、批評と呼ばれているものを広く観察すれば分かると思うが、構造を見出す行為なのであって、その構造を見出すということと評価っていうのは本当は全然違うものだと感じる。例えばその見出された構造を守った上で下らないものを作ることもできたりする、一人の人間が全然違った作業をしているわけね。
まあ俺は、文化人類学的な批評こそが、普遍的で、純粋な批評だと思っている。だから俺は批評には文化人類学的な発見が必要だと思っている。
大失敗の人達は、新しい人を発見すれば良いと思うけどな。そうすれば権威的に振る舞っても、文句を言われにくいんじゃないかと思うけど。(もし大失敗の人達のモチーフが全共闘に対する三島由紀夫ならば、未来に繋がるような生成力が必要じゃないだろうか。)
穢多非人っていうのは、肉を食わない時代に屠殺とかしていたわけでしょう。多分、当時の人からは意味不明だと思うんだよね。現代における穢多非人、精神性の評価最下位は、だからクリエイターなんかじゃ全然無くて、批評家だということは自覚した方が良いと思うよ。
まあ俺は、それで自然言語だとか数学の思考プロセスに行ったわけだから。それでも道具としてプログラミングを使って批評家という枠組みで文句を言われたりするわけだけど。必要だと思われないと駄目よ。新しい人を発見するのは必要な作業だから、だから俺としてはそれがオススメ。
俺は、数学の二大巨頭とか物理の二大巨頭と比較されたいんだよね。そこにアリストテレスとか釈迦とか入れると、正直一枚落ちるという感覚があるでしょう。その遠慮の中にいるというか、勝てるかもしれない相手と比較されてるんだよね。でも例えば、アインシュタインとニュートンは時代の要請の中にいて代わりはいたかもしれないけど俺は代わりはいないよねとか、ガウスは言語学と数学に興味を持って数学に行ったけど俺は言語学をかなり解明したよねとか、そこにオイラーを入れた5人で比較されたいね俺は。
あと俺はやっぱり、N国党を支持するね。この状況を一つの教室だと考えると、一人の人間として尊重するべきだと思うね。ヒトラーにはなり得ないと思うし。いや邪魔なのかもしれないけどね。俺はそうしたいし、これからもそのスタンスで行く。
と言ったら弱者みたいだけど、まさか広告が打ち切られるとはな、どうなるんだろうなあ。党首次第というか、正義感でやってる人だと思うから、問題無い気もするけど。
俺が自分の理論を信じる時っていうのは、いつも頭に「でも」がつくんだよね。でも、この言語理論は正しいよなとか。
俺の理論を信じるような時はそれがふさわしいんじゃないかな。でもこの貨幣論は正しいよなとか。俺自身ですらそうなのだから。
あの社会的ポジションの4象限の理論というか図解は本当にお気に入りでね。批評家とクリエイターの関係も上手く表せているし、左右対立や上下対立も乗り越えることができるんだよね。
政治の現在状況を上手く表せていると思うんで、ぜひ俺とは関係無く多くの人に使ってもらいたい。
まあしかし俺も本当に働くようになったよ。15分作業して45分休憩するペースだから、社会人だったら怒られるぐらいだろうが。他人の労力を削減するためなら、それぐらいの労力は割ける。
どーよ。
https://after10.hatenablog.com/entry/2019/10/27/171732
学校教育と対極だよね。数学の内容にしても、削れるものなら削った方が良いんだよ。俺もベーシックイングリッシュ理論を教えろとか絶対に言わないしね、不毛だと思うし。
いやまだ分からないけどね。でももし、俺が幾何学の問題を完全にグラフの問題に置き換えることができたら、幾何学は削った方が良いと思うね。もし可能だったらね、現実への応用に過ぎなくなるわけだから。
学問の基礎論を整備しようとするような人間が、他者の目的まで書き換えようとするのは、ある種の倫理に反するのではないかと俺は思う。
フォロワーとか弟子とか考えたのはやっぱり気の迷いで、俺もそういう出来た人間ではないわけだし、大失敗の人たちは、理論は道具として自由に使えば良いと思う。
そういうのはやっぱり完全に自由であるべきだと思う。弟子っていうのは、本当は複数から受ける影響を一つに絞るという制約をかけるという話で、それが純度というか良い風に働くこともあると思うけど、やっぱり俺の考えとは相容れない。というか始まりから俺の勘違いだった気がしてきた、あの時怒ったのは俺が弟子だと勘違いしたからなんじゃないか。
対等にやっていきたい。年齢差的にもやっぱりそれが自然だと思う。
日本の批評っていうのはやっぱりオリジナルで、その継承っていうのは憎まれながらも続いていった方が良い。俺は応援している、俺の出自もそこなわけだし。
日本の批評っていうのは一つの文化であって、目的自体を作り出している。そういう偉さはあると思う。俺は文化を作りたいわけじゃない、やっぱりそういうのは違う。
俺の性格って、実の家族の影響も受けているわけじゃん、やっぱり。それが受け継がれていく可能性があったかと思うと、妙だよな。
もちろん人間は疑うべきだと思う、なぜならそうでなければ矛盾するから。またできるだけ少数派に立とうとするべきだとも思う、なぜならバイアスがかかっているから。
でも、俺の実の家族は全く哲学とは関係無いわけで、そういう気質が受け継がれていくのは妙だし、違うんじゃないかと思うんだよな。
立場を利用して自由にやる哲学者とか思想家ばかりだから疑われているという状況なんだと思うんだよな。そしてその疑いは正しいと思うしね、俺も保育所の時はクズだったわけで。
まあそういう所も含めて、根本的には人間は疑うべきだと思うんだよな。状況的に信じざるを得ないにしても。
大失敗の人たちを見て思ったけど、俺はやっぱり他人をスポイルする所がある。そういうのは向かない。
いや実は実の家族がスポイルする所があるんだよね。まあ数学とかに集中するよ。
精神性について考えていて思うのだが、評価というのは評価した後にどうするかが無ければやはり意味は無いと思う。社会において重んじるとか。つまりクッションを柔らかくするだとか。
社会の外に精神性があるかといえば、私は相当に疑問です。