検証するって脅すように言う人がいるけど、検証すれば良いと思うんだよね。書いた人も今は立教大学の教授( http://univdb.rikkyo.ac.jp/view?l=ja&u=290&a2=0000032 )みたいで怪しいわけでは無いと思うし、高校数学とかネットで補完できるレベルなんだから直接読めば良いと思うんだよ。 https://www2.rikkyo.ac.jp/web/murase/paper/95vote.pdf
全体のことを考えたとしても数千年に一度とかになって現実的では無いし、アンケートとしても統計的に誤差というか印象に影響を与えないはずだし。
まあ糸井重里氏の件は嘘では無いが、しかし一方で俺がクズなのも認めてほしいとは思うね、肯定する必要は無いが。
まあ投票は統計的に誤差で終わりなんだが、その判断を数式にしようという趣向というか細かい議論は存在して、その紹介がこの論文なわけだよね。利他的なモデルもしっかり考えてあるし。
まあとにかく読んでほしいと。内容による判断以外だと、俺が嘘付きかどうかという話に終始してしまう。そんなことを言い出したら人類の話なんて基本的に信用できない、立教大学の社会学部の教授の、査読を通った論文だろうが。再現性の危機だとかもあるわけで(このパーセンテージを見てほしい https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8D%E7%8F%BE%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F#%E7%A7%91%E5%AD%A6%E4%B8%80%E8%88%AC )。まあ入り口としてはそういうのも有効かと思って紹介してみたけど。
もうそういう議論は存在するはずだし(自分だったらどういう数式を立てるか考えてみてほしい)、俺の補足から逃げないでほしい、事実は何かを考えてほしい。
シャーマニズムという観点無しで、その議論における警戒を説明することはできない。どんなイデオロギーにもそこでの生活がある、その生活まで想像しないとイデオロギーの本当の在り方は見えない。
俺としては、まずこの24年前にもあった事実を、革命は必要無いというのとセットで世間に伝えたいと思っている。でしっかり伝わったら、下位選挙区モデルやグループリーダーモデルのようなものが今の大枠の体制を維持したまま形成されるはず。それがなぜか伝わっていかないので困っている。
俺は町内会から立ち上げると表現しているけど。他にも委任投票制とか、票数を半リアルタイムで公開するとか、色々な体制を考えたけど、それが一番まともな解決策だと思う。現在の国家システムが非合理だということで合意できないと、その議論自体が始まらない。
これは所謂知識人にかかっている。コミュニティーのようなものはあるだろうから、その内部でこの論文を検討してほしい。この件に関しては、専門で分断されてるから伝わってないだけで、数式を立てるならこうなるはずで、俺の意見では無いので、俺抜きで話を進めてくれても構わない。現在のシステムは非合理だし、世界同時革命にも繋がり得る論点だ、無血でやれる。
立憲民主党は、クラウドファンディングを使ったら良いと思うんだよね、サンダースみたいに。分かってないかな俺。
こんなに政治に詳しくない哲学者は初めてだと思うんだよね。ただ俺は、与党にしても野党にしても、偉いなあとしか思わないんだよね。
滑らかに、革命が起こったというよりは、SEALDsで起きたみたいに、政治活動の在り方が変わったみたいな風になったら良いと思っている。流石に今の日本で革命というようなモチベーションは無いだろうと思うし。民主主義の所はどこも引いちゃうんじゃないかな。
俺は、理解できるなら誰でも良いわけだけど、具体的には批評空間の人たちに期待している。鳩山由紀夫氏とか、そこら辺のイメージだ。
これは俺の理論ですら無いわけだから、政治活動としての必然性も俺が考えている以上に伝わっているはずだし、俺の意向を無視してやってしまってほしい。理解して実行できる人なら誰でも良い、活動っていうのはそういうものだろうと思う。
俺が詐欺師呼ばわりされるなんていうのは、残念で仕方ないよ。俺の提案は本質的に一つだけで、数式による投票判断という観点を持ってみてほしい、というだけだよ。自分の頭の中で考えてみても良いし、学問全体を調べてみても良い、方法は何でも良い。
高校数学まで分かる人(別にゲーム理論の均衡もそこまで難しいことを言っているわけでは無いのだし)は、もうここまで読めてしまっているのに、ここで考えるのをやめてしまって良いの?
24年前っていうのは、俺以外にも伝えようとした存在はいて、伝わらなかったということを表してるよね。数式による投票判断っていう、たったそれだけのことなのに。
数式による投票判断、つまりどこかに投票しようという時に、どういう式を立てて投票するか。俺の考えではその式はあの論文に書いてあるし、それが理解されない状況下で俺は議論の展開を強いられている。黒人だったら何%が投票して、っていうのは数式による投票判断じゃないだろう。もしそんな反論があるなら、そんなものは単に揚げ足取りだ。数式を使って理性的に投票判断をするならどういう式になるか、であって、であの論文に書いてある式はそういうものになっているはずで。もし数学を使っている人たちがそういう批判をしてきているなら、非常に不本意だ。
クズでも哲学はできるというより、クズな方が哲学としては純化していくというような感覚がある。
もちろん自分のために利用する場合は損なってしまうが。でも俺は得をしているという感覚が全く無いのでOKだと思う。
悪では無いし、役に立たないわけでも無いんだが、クズだという。まあ凡庸な感覚なんだろうし、感じなんてどうでも良いわけだけど。
例えば無職になったら哲学がしたくなるわけだよね。西洋も東洋も、あいつらは貴族なわけだが、でも太古(記録を残すようになるより前)において哲学はクズがやることだったんじゃないか。太古において無職とは何かという話で。
まあ、現代の思想や哲学にシャーマニズムのような側面があることを見切った上で、議論に影響しないと見て自分がクズであることを100%認めているという点で、俺は正解を出しているし本質的だと思う。まあ生物的な在り方は関係ないわけだが、しかし一方でそういうことも思うという話だな。
なぜ俺の理論が残らないことが正解だと思っているのか、分からんね。
コンピューターの機械語に近づくほど現実に近いというような考え方があるような気がしていて、俺はそういうソシュールみたいな、箱の中で押し合う風船みたいな言語観というか考え方は、芸術家にしても哲学者にしてもそれ以外のそこらの人にしても、プログラマーの常識というよりは現代人の常識だと思うけど、俺の認識ではコンピューターも抽象的なものの機械による実装なわけだよね、その実装は歯車でも良いし水でも良いし人力でも何でも良い。もちろん他の演算で再現できるものは省いてあるかもしれないが、省かないこともできてしまう。
コンピュータープログラムのバグも現に、機械的なミスというよりは論理的なミスなわけだよね。そして人間にはその論理的なミスを防ぐことはできないというのも経験的に知られているわけだ。
現代の数学者の考えている数学っていうのは、プリンキピア・マテマティカとブルバキなんだと思ってるけど。
もし圏論と同じものをプログラミング言語で再現できたなら、それは本質において共通していたから再現できたのだと思うし、ついでにユークリッド幾何学の自動証明の別のやり方を残せたらそれで良いんじゃないのかな。その手順を数学的にどう位置付けるかっていうのは、俺としては気になる所ではあるけどね。
プログラマーと数学者の、両方から攻撃があるわけだよね。俺が攻撃的なんじゃないかと思われてるようだけど、学派と学派でもそういう摩擦はあるし、国と国でもあるわけだし、人間というのは単にそういう生物というだけなんだと思うけど。実際にその立場に立たないと分からないよ。
今週末に、図書館で目次の研究でもしてこようかと思っている。作業手順としても目次を立ててから文章を書くはずで。
と思ったら圏論はブルバキとかとは別なのか。グロタンディーク、なのか?
まあどちらにせよ同じ話で、再現できたなら、そこに共通するものがあったということで、その共通している部分こそが数学なわけね。
現代の数学は集合論だけから立ち上げてるわけでしょ。フローチャートが足りないわな、単純に。2の前提に1があるということを考えることができないじゃないか。(順序構造があるってか、いや知ってたよそれぐらい。それを集合として捉えるのがカッコ悪いという話で。一つのフローをまとまりとして捉えて分割すれば線形代数と同じものを考えることができる、ブルバキでもう一つの基礎として位置付けられているようだが。えーっと、線形代数を視覚化したデカルト座標系は、目盛りが無ければ意味を持たないし、またその目盛りの中も、真ん中らへんに点があるとそのまとまりのその位置に点があることを意味している。だから道教の道みたいな、全く形を持たない線形代数が、まとまりを持ってフローチャートになるというわけでは無いと俺は思っている。最初は1目盛りが1で、途中から10になるようなものも考えることができる。ただまあ、ベーシックイングリッシュ理論においてもルールやリズムの辺りはやや曖昧なわけで、そこら辺で進展があるんじゃないかという気もしなくもない。あと話は変わるが、解法において視点というか基準をどのスケールでどこに置くかというのも、数学やプログラミングにおいて重要な概念になり得るんじゃないかという着想もあるにはある)
まあ、投票は統計的に誤差だと分からない人には、良くも悪くも何を言っても無駄なわけだけどね。それが分からず、敵味方で考える人は、状況が整えば敵に転じてしまう。たとえ本人が敵でも、投票は統計的に誤差だと分かっていれば、まだ話は通じる、群れも信じていないだろうし。
俺を味方だと思っている人は、まず、俺がクズだと認めてほしいもんだな、そこがスタートだろう。
まあ俺は誰が悪いわけでも無いと思うけどね、ここは教室の中なのであって。世界観が狭いと批判されそうだけど、なぜ心の中で繋がっていないのかの方が俺には不思議だけど。
後は一人一人のプロフェッショナリズムや領分主義が悪い。どういうルールが上手く行くかは時と場合によるが、その二つは現代の常識にすぎない所が大きいし。俺の考えではだか、半信半疑というのが、つまり何も確定していない状態が、考える上での基本ポジションであるべきで、何かについて確信するから投票にしても貨幣論にしても問題が起こる。半信半疑だから俺は自分の考えを変えれるし、相手が目の前で空中浮遊を使っても相手のことを信じずに済む、科学を信じてないからだ。科学を権威だと思っているから、それが引っくり返された時にそいつが権威になる。
数学者が何を言っていても、投票しても統計的に誤差だと分からないくせに、やーい、としか思わないね。右か左が数千年に一度に一票差で勝つ時のために投票に行けば良い。
もちろん社会を維持している人たちには敬意を払うつもりでいるが。
投票しても統計的に誤差だと分からない人で、味方でいてくれようとする人は、正直向き合っていて辛い。逆にどこかでそれが分かっていると感じる人は、昔に敵として振る舞った人でも落ち着く。
なぜ投票をしても統計的に誤差だと分からないのかが、俺には分からない。
別に誰が悪いわけでも無いんだが、投票してもアンケートと同じで統計的に誤差だと言って、伝わる世の中だったら良かったのになあ。別にこれからも政治は必要であり続けると思うが。
自分の利益を考える限りではあの論文の通りだろうし、全体のことを考える場合も数千年に一度だろうし、また印象に影響を与えるかと言ったらアンケートとして見たら十分なサンプル数があって統計的に誤差で印象に影響するというと非論理的だろうし。その3点で意味が無いんだから、意味が無いに決まってる。アンケートの材料になるのが義務であり、権利ということなんだろうか。
数千年に一度にしても、アンケートのサンプルになるのが義務であり権利にしても、言うほど論理的な形態には感じない。むしろあの論文の議論は、実際真面目にああいう投票を擁護する理論が提出されたと考えると、神の存在証明のように感じてならない。
なぜ投票には意味があると考えるのかが全く分からん。どれなんだろう、数千年に一度に一票差で勝つ時のために投票に行くのか、統計的に誤差であるにも関わらずアンケートに一票入れるのが義務であり権利なのか。
他国のイデオロギーについてはどう考えているのだろう。どの国にも数学ができる奴はいるし、それぞれの国でそいつらが真面目に信じているわけなのだが、自分たちがそれでは無いという確信が、一体どこから来るのだろう。ここまで丁寧に示しているのに。他の国に生まれたらあんたはそのイデオロギーを信じるんじゃないのか。
心の虚しさとは何だろうかというか、その虚しさを無くすことを行動の根拠にして良いものだろうかと思う。
俺は自分の問題点はよく分かっていて、幼少期に妹が産まれて構ってもらえなくなって、それで平等ということを言ったら親が言うことを聞いてくれて、それで正義ということをよく考えるようになった。
社会の上からの評価や義務などは、人を落ち込ませる、それは自分に向けたものであれ他人に向けたものであれ。そしてそれを手放すことを考えると、俺の心は虚しさを感じる。
投票について安心させてしまうんじゃないかと、書くか迷ったんだが。色々なイデオロギーが世界にはある、どれが正しいかは分からない、投票は正しいかな。
ああ、今気付いた、けど無意識はしっかりそれについて書いているわけで、まあそういうことなんだろうな。
文学フリマも40部ほど100円で売り払ったけどもちろん何も起きないし、もう40歳ぐらいから放送大学経由で大学院に行くぐらいかな。
今の世の中では、どうも金儲けとか自己実現とか人間関係の話になってしまうんで、もう少し世の中が切羽詰まってくる必要があるし、どんなに少なく見積もってもあと10年ほど、つまり30代中盤で数学研究をやめるぐらいまでは何も無いのかなと思っている。
どちらにしても、長期戦覚悟という感じだ。
俺の理論とは何かと言えば、まずベーシックイングリッシュ理論と日本語論と、まあできれば数学論なわけで、それを最終的に出すということを考えた時に、商業のラインが使えるかと言えば、まあ無理だよね。誰も悪くない、強いていうなら一人一人のプロフェッショナリズムや領分主義が悪いっていうのはそういう意味でね。ハッキリ言って、最初から出口なんか無いってことだね。
ここでの書き込みや数学日記は、その途中の日記や記録として読まれるはずで、もっと言えば読まれないはずで、そういう前提で書いている。後の世にもあるにはあるだろう入門書だとかで、他の思想家や哲学者のように、要約で紹介されるはずだ(ちなみに地味だけど俺のオススメはこの文明論ね。 https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=398665647212864&id=100012082960377 )。ルソーみたいに知らない内に影響するなら、単一文明や尺度での精神性が疑われるように働けば良いと思っている、星の王子さまはルソーだということを意識して書かれていないだろう。その知らない内の影響が良いかはともかくね、現代人は逃れてないわけだけど。
副業で、自分で自分の入門書を書くのも悪くないかもしれない。
2ヶ月に1回、東京か京都か大阪に旅行に行くのを目標にしよう。
大して何も書いてないし、生活の中での気付きと、時事批評と、それまでの日々の中での思いつきというか蓄積を食いつぶしているだけだな。まあでもあの文明論のように、紹介すべきものもある。
目次を大雑把に作ってみた。順番は適当。題名は未定。
まあ、目次を作ってみて良かったな。書くのを前提に文章の研究をしよう。正直、目次の研究からは得るものはあんまり無かった。
いや、もし書くとしたら、引用と整形で行こう。あのリアルメンヘラ男の日記から、思想部分だけを分離するというコンセプトで行こう。製本500円で販売価格1500円、とりあえず30部用意。まあ平均的な映画よりは面白いんじゃないかな。
書かずに価値を出すということの実践にしたい。ここ10年の旅行代を稼ぐものでありながら、後から振り返った時に自分の思想とはこれだったんだと思えるようなものにしたい。
皆が暇になったら観光地は今以上に人であふれるに違いないわけで、おそらく観光自体が今にクールじゃ無くなるに違いないわけだがな。まあしかし、世界観崩壊ツアーみたいなものにしたいね、そこらの旅行より絶対に価値観を変える自信がある。
まあしかし目次を作ってみて分かったんだが、俺と他との違いは、暇つぶしと考えているか仕事と考えているかだな。今までの印象では逆だったんだが、まあ俺の行動というのは基本的に趣味のための整備なのであって、仕事のための整備では無いんだね。他の人は仕事のための整備をしている、だから話が合わない。
仕事としてだったらそりゃ分業するけど、趣味としてだったら分業する必要は無い。現代において学校が問題になることは無い、なぜなら仕事のための競争だから、問題になるとしても仕事としての問題。知性や精神性を批判するのも、そういうものがあったら純粋に趣味を楽しめないだろうという想定だった。だから今振り返ると、そこで食い違っている。
まあね、でも共産主義の国に生まれたら共産主義みたいな価値観を持つわけじゃない、結局。投票を疑う所から始めるこったね。
まあ俺は自分の精神性は低いと思うけどね。肉を食ったり戦争をしてても精神性が高いということはあるからね。
現代アート論は、日本の現代アート作家の人達は、というのは具体的には会田誠氏だけど、長年の目論見が叶ったと言えるんじゃないかと俺は思っている。文化人類学的批評というのは今までの評価する批評が無くなるということで、基本的には創作している人には良いことなんじゃないかと思っている。まあ俺なんかリアルでのコミュニケーションは無いし現状では一人小国みたいなものなのだから、あれは事故でしか無い。
『現代の社会と思想について』
「資本主義と学問」
・貨幣論
・学校論 資本主義において 出会いの場として
・プロフェッショナリズム批判
・論文批判
「国家」
・4タイプ論の図解
・東アジア論
・投票批判
・町内会から国連へ 合意による国家形成
「近代」
・近代とは、ポストモダンとは
・田舎論
・知性批判
・精神性批判
・現代アート論、虫の模様
・n点透視図法と後ろの視界の想像
・色彩論
・植物の枝と葉
・上半身の筋肉は手を動かすために付いている
・文化人類学的批評
『そもそも思想とは何か』
・国家と宗教と思想とシャーマニズムと天才
・あらゆる政治的対立には相手は嘘を付くという認識が前提にある
・遠慮してはいけない 1対複数 出る杭では無い まず負けるということ
・人間を信じてはならないということ
・人間観が自分の文化圏で閉じている問題、子供
・警察、見せしめ、抑止力としての地獄
・ゲシュタルトは脳神経のルール
・太った萌え絵、ネオテニー、ゲシュタルト
・人間の動物への嫌悪は口臭と結び付いている
・道徳と顔、自然裁判
・集合的無意識について
・半信半疑
『人間のデッドエンドについて』
・文明論
・退屈、面白い楽しい美しい
・趣味を2種類
・幸福とは現状維持への
・遺伝子と自分は他者
俺は思想としては割と我が無いタイプだと、自分では思っているんだけどね。検算できるっていうのはオーバーだったかもしれないけど。
でも世界に対しては、申し訳ないというだけでね。この文化圏にあって、投票について教えたことは感謝してほしいけどね。そこは普通の奴はやらない、そう思うね。
50年ほどはかかると見ている。って、そりゃ軽んじすぎか?
でこの後もすいません、すいません、って感じでね。そういう男なんだね。
アドバイスっていうのは誰でもするものだけど、一人でなく集団で成功している人達のものを参考にするのが良いのかもしれない。そういう時期ってあるものだと思うけど、日本の一時期の物理学だとか、その人達の一人でなく共通しているものを参考にすれば良い。
俺の1対複数っていうのはアドバイスというよりは、思想とは何かを考えると小さな隣国を作るようなものなのだし、それが現実であることは多くの人が知っていると思う。
まあでもあの目次を作って良かったというか、これで今までのここでの書き込みは完全に日記になったと思う。思想とは何かを明らかにできれば、他の相対化は全部小手先でしか無い、それを常識にできるように頑張ろう。
あの目次を見て、あれが言いたいんだなと分かったなら、俺の文章なんか一切読まなくて良いと思う。まあそうじゃなくても読む必要なんか無いんだが、いろんな本みたいに読もうと思うにしてもあれが分かるなら読む必要は無いんだよね、それが書いてあるんだから。
で元々バラバラの文章なのだから、ん?と気になったらそこだけ読めば良い。
俺は昔から、西洋の哲学が本で原理を示そうとするのが不思議でさ。そういうまあ文献学的なスタイルっていうのは、それを指摘した人が誰であれ、不思議なものではあるよね。
でしかも、情報をまとめてあるほとんどの本は情報源というものがあるのだから、本当はあれはネットのリンクの集まりのようなものなのだよね、未発達あるいは社会的な事情でああなっているだけで(社会的な事情と言っても引用はしてしまっているわけだけど)。でそのurlをまとめて解釈を付けただけのものを提示されて、それを本と同じように凄いと思うのかどうかっていう。
じゃあどうして俺は今回、発言のurlをまとめたページをネットで公開するだけで無く、実際の文章に起こして書籍にするのか?金。
それとは別に、あの目次で言いたいことをまとめた、まとまったのは大きかった。
グラフの問題を数学で捉えようという時に、数学者はトポロジーで捉えるのだろうか。それともグラフの問題は数学の問題では無いのだろうか。どちらかだろうと推測するが。
ただの論理式で無く、デカルト座標に置き換えるのでも無く、グラフでユークリッド幾何学の自動証明を模索するっていうのは、やっぱり正しいと思うんだよね。
線形代数の連続的な位置っていうのは、それ自体で数学であり得るんだろうか。10進数だとかで分析するようになって、初めて数学になるんじゃないか。
俺はポストモダニストとは違う。なぜなら今実際に数学の研究をしているからだ。もしグラフによるユークリッド幾何学の自動証明が成功したら、これは明らかに数学の業績だろうと思う。
前提から弾き出す数学と、結果から逆算して記述する数学があったとして、どちらが原始的なのかと言えば、判断が分かれる所だと思う。数学者は後者しか数学だと思わないのかもしれないが、俺はどちらも数学だと思うし、プログラミングの歴史は抽象化の歴史でもあるわけで、その二つの違いというのは意外に判断が付きにくい。プログラミングにとっても数学にとっても、実は違いなど無いんじゃないかというのが俺の仮説だ。ユークリッド幾何学の自動証明が成功すれば、一気に説得力が増すだろう、この実践やプログラムをどう数学に位置付けるのか。数学の研究はそれ自体が実践であるはずだし、また数式を工学で使うこともできる。プログラミングと同じではないだろうか、プログラミングの実践もあれは本当に現実での実践なのか、プログラミングの工学は必ずしも現実での工学なのだろうか。
計算機で数式の演算を再現できるわけだが、その時に数式とプログラミングでの高級言語(極端な所ではprolog)では何が違うのか。くり返すように計算機だって底まで降りても論理的操作の機械による実装だ。こんなにも概念が似通っているのに、なぜその類似性が指摘されないままここまで来てしまったのだろうか。その類似性や手元での実行があれば、数学の理解はもっと簡単になるんじゃないのか。
数学の難しさは今までの哲学や言語学の難しさに似ているし、もっと簡単にできるはずだというのをwikipediaを読むたびに思う、哲学の時にそうだったように。
また一方プログラミングも、コンパイルだとかで現実の抽象化というよりは翻訳だと考えることで、もっと一般的に簡単にならないかなと思うんだよね。OSだとかもまだ勉強しないと分からないけど。
最適化(例えば算数オリンピックの問題を解くとは計算量を減らすということだ)だとかも含めて、数学とプログラミングが一体になった時に、どうなるかっていう。それこそが双方にとってのあるべき姿なのではないか。
やっぱり角度の360°みたいな、360と0が同じであるようなのは、循環数と呼んだら良いんじゃないか。循環リストみたいに。そういうものを導入した方が記述は簡単になる。
インチキ扱いされてるんだろうがな、どうせ。少し遡れば貨幣論があるわけだが、あれで貨幣が説明できていると思うとして、なぜそれがあなたにとっての貨幣論じゃないのか。本屋に貨幣論の本がまずあるはずだから、それを立ち読みでちょっと読んでみて、比べてみれば良い。その本の著者の肩書よりは俺はインチキじゃないわけ。誰でも間違うことはあるわけだが、なぜ内容で判断しないのかと、間違ったら間違ったと分かるわけじゃん、どうやって衰えたか判断されているかって、内容以外の何でも無い、その程度の裏付けしか現実には無い。例えば権威ある数学者がイイねとか言ったら、これは良いということになっちゃうよ。しかもそういうのは度々今までも専門家の中でも意見が分かれるんだぜ。どうするの?内容以外の何で判断するのか。プロフェッショナリズムが業界主義だとして、それのどこがどう権威や抑圧じゃないのか。
「所有とは物への決定権への合意、交換とは合意の元でのそれのお互いへの移動、物々交換でもそれぞれの目的にとって最適化したら相場ができる、相場ができたら何でも貨幣になる。」
結構離れていたんで貼っておいた。
「それぞれの目的にとっての交換の最適化で相場が発生するという話だけど、例えば、3種類の物があって、迂回したら直接交換するより少ない元々の物で交換できるなら、逆に言えば目的の物は多くの元々の物と交換できるわけだから、ループすることで無限に増やしていくことができるわけね。逆の立場ではどんどん物が少なくなっていくわけだから、そういう歪みを発生させない圧力がかかる。それでそれぞれにとっての目的の最適化でも相場が生まれる。」
ほれほれ。本屋で読み比べてみなって。
自分の理性と業界を比べて業界に傾く人間に、天動説の議論を疑える人間を気取れるのかねと。地面が動くという理論よりはよっぽど現実的だし、議論としてだって難しくない。イージーモードであるべきじゃないのか。例えば俺はその貨幣論の本を書いているやつよりはインチキじゃ無いんだ。
代数学や解析学はともかく、それ以外は簡単になるっていうのは、凄く大きな遺産じゃないだろうか。今だってもうあの我が入り込んでいないような目次や、言語学を残している。俺の性格なんてどうでもよくないですかと。消えそうなのがむしろ面白い。
俺の便利な所は、理性的には現代の価値観に気付きながらも、無意識的にはほとんど疑えてない所だと思う。
普通、偉人の本を読む時っていうのは血肉にしようとするものだけど、俺の場合は読むなら表面だけ読むべきで、血肉にしたらむしろ駄目なわけじゃん。でも理論は正しいよなというような読み方というか。
本当はみんなそういうものを求めてたんじゃないかな。
生活上どうしても付き合わなきゃいけない人の書き込みだと思えば良い。血肉にしようと思って読むわけでは無いし、血肉にもならないけど、そういう人が本質を突く時もあるでしょう。俺の貨幣論や投票批判は素晴らしいんだよ。
哲学っていうのはいつ頃から頻繁に使われだした単語なんだろうね。というのもニュートンが理系でライプニッツや同時代の学者が文系っていうのは、あまりにも恣意的な区分に感じる。
その区分を取っ払ってみると、数学の流れも見えやすくなるんじゃないかな。
おそらくピラミッドを作っていたエジプトから、ギリシャに来て、イスラムやインドに来て、西洋に来て、日本(あるいは俺)に来て、脳神経に基礎付けられて人類のものになる。
そりゃあまりにも恣意的なストーリーメイクだろうか。
それこそが文系というものじゃないかな。
「してはいけない」を「するべきでは無い」と表現するのは駄目だと思うんだよな、最近。やってしまうけど。
いや、制約を外したら喋り言葉のようになるなら、喋り言葉のように書いてしまえば良いと思うんだよね俺は。なぜ駄目なのかが分からない。話し言葉のようになるんだっていうのは、わざとこういう風に書き始めてから発見したことだったけど。もう自分の中では馴染んだけど。
個人への批判と理論への批判は、また逆に肯定でも同じことだろうと思うけど、分けてほしい。あるいは分けれない理由だとかを論点にしてほしい。
でもこの貨幣論は正しいよな、というのが俺にとっての第一なんであって、理論以外の何を批判されても俺の中では揺るがない。それだけ。
俺を個人として説教しながら、しかし社会を変えるために俺の理論を世に出すような人が出てきてほしかった。昔の人だったらそれが出来たとは言わないけど。でもそれについてはもう諦めている。
俺個人に対する批判は割りと当たってると思うがな。
言語理論とあの目次とできれば数学理論が、今の俺が世に伝えたいと思っている全主張なんだが、だとして俺は自分が主体的に何かを言っているとは思えない。
既存の思想を分析して、思想とは何かを分析して、後は退屈について少し書いただけなわけで。数学理論も自分独自の記述法を作ったというよりは、どちらかと言えばプログラミングと数学の特に圏論を結びつけただけだと思うし。
まあ、退屈について少し書いただけはオーバーかもしれないけど、生物学かと思うぐらいには枯れてると思う。周りが思ってるよりは枯れてると、俺は思っているけど。
あの貨幣論は本物だ、投票批判は本物だ、としか俺には言えない。あの目次の一つでも合っていて新しければ凄いのに。それが分からない人がほとんどみたいで、新興宗教や嘘扱いされるわけだけど。根拠なんて他には何もいらない、本屋に行って貨幣論を読んで書いてなかったら、その著者の肩書きよりはインチキじゃない。
こういう本質的に今の社会を崩してしまうような考えに対する反応っていうのは、どの文化圏や時代でも変わらない、どうやら現代の日本ですら変わらない。思想ということで言えば、あの目次が今の俺が伝えたいことの全てだ。なぜ貨幣論が分からないのか。
本に書いてある貨幣論は信じて、また信じている人がどんどん増えていっている中で、俺の貨幣論に対しては何も思わない。本を読めば分かることなのにそれをせず、噂話でいかにも思想で俺をこのまま消してしまおうぜと隣と同意を取るようなツイートばかりしている。
例えばこの説明はどうだ。 https://kotobank.jp/word/交換過程-1532229 つまりそれぞれにとっての目的への最適化では相場は生まれない、その解決策として交換するための貨幣があると書いてあるわけだけど、こういう説明は本屋に行けば読めるはずだよ。
使用価値はそれぞれ質的に異なる、例えば「1ぐっすり眠れる = 100ピリリと辛い」なんて等式は数学的にあり得ないにも関わらず、あり得るというフィクションを社会的生活のために立ち上げざるを得ない、という立論になっている。これは俺の理論とは違うだろう。相場の発生にフィクションは必要無い。仮に俺と同じ理論だとして、なぜ俺と同じように説明しないのか。
俺がパラッと読む限り、経済学の教科書にも貨幣とは何かは書いてないわけだが、学部生とかに教えなくて良いほど自明なことだろうか。確かに見逃した可能性はあるが、だとして教科書を読んだ人の中にも現代貨幣理論を信じる奴らがいるわけだが、彼らは何なのか(と書くと誰かを批判したようだが俺は具体的な誰かを批判したわけでは無い。また内容について知らないわけで、俺は反射的な判断で科学的だというポーズを取る気も無い。ただ、俺の貨幣論とは違うのは確かだし、彼らが俺のような貨幣論を批判している様子も俺の狭い観測範囲では見えないというだけの話だ)。入門書を読んで、どこに俺と同じ貨幣論が書いてある?なぜ書かない?という所から判断する限り、やはり貨幣論は無かったとしか思えない。ざっとググっても出てこない。
今の(と書くと間違ってると言ってるようで気が引けるのだが)貨幣に価値があるのは、皆の価値判断を最初から皆で参照し合っているというか想定し合っている所から来る、バグみたいなものだと思うけど。一度相場で価値があるということになれば、相互参照でとりあえずは動かないし、連鎖的に一気に動くという現象も起こる。でもそれは補足的な問題で、俺の理論でとりあえずは貨幣の発生は説明できてると思うけど。
この池上彰氏の説明( https://www.asahi.com/ads/start/articles/00043/ )が似てるんだけど、でもこの後に行ったら金本位制より後の貨幣の根拠は信頼だと書いている。俺は相場ができれば理論上は何でも貨幣になって、相場は違う目的を持ったバラバラな存在同士の交換の最適化でもできると言っている。だからやっぱり違うんだよね。
俺は教室の中でも下の方だと思うが、そういう人間が貨幣論や投票批判に気付いてしまった時にどうするべきかっていうね。そういうことなんだね。
人間の性質で、その指摘が精神性と結び付いてしまっている。その結び付きをなるべく切り離そうという慣習が無ければ、それの反転として精神への批判が成立してしまって、貨幣論や投票批判が変な風に封じ込められてしまう。
19世紀以降の哲学の文章は、ゴチャゴチャしていてむしろ結び付ける所に特化されてるように見える。本能だろうがな、もしそうだとしたらそれは肯定され得ないのではないか。貨幣論だとかが失われることになってしまう。
別に全員が数学やプログラミングを使う必要は無いが、その精神性を取り除いてみれば、話は分かりやすくなるんじゃないかな。
まあ例えば、ルソーの精神性が低いという奴はいないと思うんだよね。ヴィトゲンシュタインですら、精神性が低いという奴はいないだろう。これはニュートンでも同じだろう。俺は本当にクラスで下の方だったんだね。
https://sasaharayuugo.net/kurorekishi/facebook1-tumblr-facebook2.html を振り返っていて、一見して何の問題も無さそうな文章ですらが、なぜこんなにも気持ちを萎えさせるのかと驚いている。
俺は応援してくれる人のことはなるべく見ないようにしている。経験的にスポイルしてしまうことはもちろん、明らかにこの問題にまともな出口なんて無いし、だからこそ良い人達なんだろうなと思うしね。
なぜあの当時の自分は超越にこだわっていたのか、今見ると不思議だ。
今でも枠の中にいるんじゃないかという不全感に襲われることはあるが、その時には、可能かは分からないが遠隔のMRIとか、LSDみたいなもので、工学的に超越しようと考え直すことにしている。手軽に超越できるようになれば、超越にこだわることも無くなるだろう。
いや俺が研究するという話では無くてね。通るとしたら、そのルートを通ると決めている。晩年に誰かが用意してくれるんじゃないか。無いならそれはそれで良い。
その装置ができたら、そこらの虫に片っ端からかけていくか?馬鹿馬鹿しい話だよ。そういう話じゃない。
あらゆるものは、あるか無いかの二択で無く、実際には「ほとんどの可能性である」から「ほとんどの可能性で無い」までのグラデーションになっているわけで。
例えば俺は目の前に人がいても実際にはいない可能性を数%は残しているし、異なる文化圏の間であるという人がこんなにいるんだから、俺は60%ぐらいであると思ってるけど、5から10%ぐらいはあると考えるべきなんじゃないかと思うけど。
そりゃ判定不可能だろうけど、だとしたら結果は分からないということになるはずで、分かるという態度ではいけないと俺は思うんだよ。
0か100かのハッキリした状態は気持ち良いけど、半信半疑を基本ポジションにしなきゃ駄目だよ。実験だとか制約だとかそういう知において、何も確定していない状態では半信半疑であるべきだっていうのは、そんなにおかしなことを言ってるかな。なぜ確定させてしまうのか。
プログラマーにも数学をやってる人にも宗教をやってる人はいるし、もうちょっとスタンスについて考え直した方が良いと思うよ。
後から振り返れば、言語理論や数学理論(研究過程では無く)が輝いて見えるに決まっているわけで、それがあってこういう日記が過去の日記として面白くなる(内容がつまらなくても)。
やっぱりあの目次さえ残せば、後は全部が日記ということで良い。脱ニート前とか田舎ニートとかのブログと同じ風に見える、同じだろう。
自分としてはあの目次と似たようなプログラムを進めてきたつもりだったけど、そりゃ伝わらないのも当たり前だよな。関係無いことばかり書いている。というかあの目次はいつ出てくるのか。
あの目次に無理矢理まとめて(本としては)それで終わりで良い。本当はあれがやりたかったんだから。どこかには書いたはずなんだが。あれが俺の思想における仕事なんだ。
一つ一つの書き込みが何らかの解体のつもりだったけど、延々と引っ掻いているように見える。浅いというかなんというか。そこじゃないだろうと。
それで気分まで悪くなるんだから最悪だ。でも、あの目次についての書き込みもあったはずで、ほとんどそれだけで十分に意味があったと思う。また自画自賛かもしれないけど、本当にそう思う。
数学研究をやっていて良かった。後からそう思うことは分かっていたから数学研究を始めたのだけど、本当に良かった。
別に黒歴史として残しておくつもりだけど、あの目次以外は消してしまいたいまである、消さないけど。
うるせえなあと思いながら読んでいる。相手の役に立つということを考えると、あの目次以外には無い。
俺はさ、どうでも良いんだよ、投票批判とか貨幣論とかあの目次に書いてあること以外は。言語論とか数学論とかは別だけど。自分で積極的に何かを言いたいわけじゃ無い。
多分、日本に住んでる奴は貨幣論でなるほどと思って投票批判で怪しいとか未熟だとか思うんだと思うけど、ソ連だったら逆だと思うんだよね。まあ糸井重里氏の件は、事実は認めろと思うけど、後はどうでも良いよ、俺は。
哲学という意味では本物の言語論とできれば数学基礎論を残して、思想という意味では解体ばかりして、っていうつもりだったんだよ。なんかラッキーパンチで当たったりもしたけど、それは俺の仕事では無いし、最近なんか逆に権威的なエアリプになったりしてるみたいだし。
やっぱり言語論と数学基礎論は良いしね、あの目次を本にまとめて売りたくなった。こんなものを読まなきゃ分からないなんて、無理、というか読んでもどこに書いてあるか分からない。
昔は監視する人が欲しいなんて思っていたものだけど、研究過程を晒してしまえば良いんだな、と。
とりあえずここに研究メモをどんどん置いていくことにする。数週間ぐらいはかけるつもりだ。
最初は「つまり」とか「しかし」とか、文章のつなぎの種類を集めたい。それから説明が上手い人を参考にして、更に意図の設計について書ければ良いが、どうなるかは分からない。
あの目次の本に使う予定では無い。あの本はスクラップ帳みたいにして作りたい、少しだけ直す程度で。
文章の研究はぷよぷよの研究だとかに似ている。インテリアだろうがファッションだろうが。自分で理論をハンドメイドするなんて誰でもやってる。
まあファッションやインテリアは理論を実践してないし、また駄目な理論なんだろうが。そういう理論は誰でも作っているし、俺はプログラミングでも数学でもそれをやっていると思っている。
計算機の命令だけで圏論抜きで数学を組み立てることができるなら、圏論とは別に組み立ててしまえば良い。圏論と同じだと認めさせることができれば俺の勝ちだし、別に組み立てることができればそれでも俺の勝ちだ。
俺はむしろ逆に不思議でね、なぜ計算機の命令セットから数学を立ち上げることができないと思っているのか。そしてそれが圏論とは別物だとして、なぜその命令セットの方が原理ということにならないと思っているのか。
『意図の設計の研究置き場』
so
but
because
though
また
言い換え 具体・抽象
このようにしてみると、 前提としての配置
また、で無く、も
そのため
その時
その場合
前に
次に
第一に まず
最初に
最後に
そこで
しかも
たしかに もちろん
では無く
特に
中でも
一方
いたとしても
もっとも
ところが
そのためには
例えば
その意味では
すると
そうして
やはり
からです
とはいえ
実際
少なくとも
ためだろう
そもそも
むしろ
付け加えれば
いずれにせよ
よって
それに限らず
言い換えると
つまり
段落末には総まとめの一文が来やすい、そこまで大きくまとめるのは珍しい
後日追記:段落と段落の関係は、文と文の関係と同じみたいで、言い換えつまり集合論的な全体や要素の関係と、「しかし」だとか「つまり」だとかのフローチャート的な関係で紡がれているように見える。文をまとまりとして見なせるように、段落もまとまりとして見なせる。文と文の関係を使えるようになれば、同じように段落と段落の関係も使えるようになるだろう。今の俺が観察する限りでは、それが文章というもので、それ以上でもそれ以下でも無いように見える。
sasaharayuugo.netにまとめる際の追記:この研究は当然未完成だ。何となく再開する機会を逃した感がある。別に自分の研究過程を説明する意図など無かったのだけど、自分の研究はいつもこんな感じで、ネットとかで必要十分だと思えるデータを集めて、それを批評するだけだ、それだけ。
まああんまり他人をナチスとかに喩えるものじゃないなと、それは反省した。
数学の教授の発言の一つ一つが、コンピューターと圏論が数学の基礎になり得るという点で同じであることを理解しているように見えない。もし理解しているなら商業ソフトを使わずに、自分でコードを読んで書くだろう。
数学の問題を解くとは、与えられた条件から答えを明らかにするということで、どうやって実現しているかと言えば計算量を減らすことで実現する。
いつかあの目次と一緒に理解されて、なぜこんなことが分からなかったんだろうと笑える日が来ることを祈っている。
あの目次はほとんど否定しかしてないわけで、そこの所を理解してほしいなと思うね、俺は。言語論と数学基礎論と否定を残してそれで良い。
思想とは何かを明らかにしたのがデカい。あれで明らかになっているだろう。
最近またぷよぷよをやってる。相手を楽しませるということを目標にしている。それは手加減するという話では全く無く、幸せなやりとりってあるものだと思うけど、それをなるべく増やしたい。
そういえばこれを書いてなかったなと思って。俺はぷよぷよのゲームモードを二つ考えている。
一つは、一段目で戦う初代ぷよぷよ、二段目で戦うぷよぷよ通に対して、三段目で戦うぷよぷよがあって良いと思っている。
今のぷよぷよは、横6列縦12段だが、上の3段は基本的に空けておく必要があるので、実質的に9段で戦う必要がある。それで、土台を組んで二段目を厚くするのが最適解になっている。
これを横7列縦15段にすると、上の3段を空けても12段残っているので、三層目で戦うぷよぷよとしての条件が整う。ホールド機能も付けて、ネクストは3つまで表示する。
もう書いてしまうが、俺はぷよぷよミーと呼んでいる。
もう一つが、セカンドで戦うDJバトルのようなぷよぷよで、具体的には横を9列にして、クイックドロップで、コントローラーのRキーLキーで右3列や左3列にぷよの出現位置を瞬間移動できるようにする。つまり窒息点が3つあるようになる。
これで瞬間的にぷよを置けるようになって、おそらくセカンドで戦うぷよぷよが成立する。
まあ俺はバイブスが低い人間だが、ぷよぷよを通して人間的に成長できたらと思っている。
未来人は暇だろうから、この二つのゲームモードがぷよぷよにおける俺の置土産な。やってみれば分かると思うよ。
まあ俺はぷよらーに対しては悪口らしい悪口は書いてなかったんだが、中学生の頃にニコニコで偉い人コメントをしたこともあったし、色々なぷよらーに対しては申し訳なかったと思っている。
俺は実際には批評らしい批評は全くしてなくて、出してないだけで無くて、自分の中で分析するのを禁じているんだよね。今振り返ると、研究の土台を作ったのはぷよぷよだったと思うし、色々なことを教えられてるんだよな。
ぷよぷよをやるたびに、才能の残酷さを感じる。多分他の人からは障害者に見えてるのだろうな。
他の人は意外と中盤をやってるという気がする。
そうか、こう考えれば良かったのかと思っても、それは幻想であって。
アドバイスのつもりは無いが、どんなアドバイスであれ、その人間が歳を取ったり寝不足だったり、少し何か変わるだけで通用しなくなる。必死に、できるかできないかギリギリの所でやっている。
投票しても統計的に誤差だと分かるという、たったそれだけですら才能だから、感謝したい。他の人に分からないという方が、むしろ人間の直感に反するのではないかと思う。アンケートに答える時には戯れだと分かっているし、投票でも違わないと分かる。
実効的側面があるアンケートっていうのは政府の投票だけでは無いわけだけど、政府の投票以外のケースでは、しっかり意味が無いと分かるわけだよね?
じゃあどうするかって、単に今の体制を維持したまま組織票を形成するということになるわけだけど。そうじゃない選択肢っていうのは、つまり新しい体制を作るということになるわけだけど、それはほぼ確実に支持されないだろう。
他の実効的側面があるアンケートと同じで非合理なら、非合理だと伝えなければいけない。
監視する人は人間なのだから必要だと思うが、別にヒトラーに例えなくてもそれは可能なわけで。アウシュヴィッツとか、戦時中の日本のおそらくゲリラへの対応は、歴史の平均と比べてもひどかったわけで、そういう実害を及ぼしているものに例えるのは良くないと思う。
落合陽一氏はやっぱり面白いというか、客観的にこうなってみると、俺は80年代が好きなんだろうね。浅田彰氏とか中沢新一氏とかを連想させる面白さというか、それもコピーでは無く三人目のようなオリジナルな言説を作り出している。自由に好きなようにやっていってほしい。
アンケートは非合理だと気付いて、非合理だと伝えているわけだから、確かにクズかもしれないけど許してほしいと思うよ。教室の中でも、そういう良い点があるわけだから。
ユークリッド幾何学だって、この後の展開次第だけど、そういう手数が多い問題は出さなくなるかもしれないわけじゃん。
人間の相場感を獲得するのに学校は有効だと思うし、その中でも俺は下の方だったし、いや本当に。
いや、歳とか寝不足っていうのはよくある例として出しただけで、例えば落合陽一氏のことを言ってるわけでは。別に寝なくて大丈夫な人もいるんだと思うし。
追記:南京大虐殺の件は、市民を虐殺する動機からおそらくゲリラだろうなと思っていたのだけど、少し調べてみたら違ったみたいだ。そこはデリケートな話題なんで、もう少し調べてから書くべきだった。申し訳無い。