岩崎夏海さんは今から良い小説を書くなりすれば良いのに。
あのプロジェクトはまだ続いているんですかね。心底くだらないと思う。
こういうことは若い頃にしか言えないことだろうから書いておくが、俺から言わせれば中年や老人が言語で若者が非言語という枠組みは相当に怪しい。
むしろ年を取るというのは現象としては、形式を現実が侵食していくということであるように見える。
追記:学問が権威だなんていうのは間違った都合の良いイメージだ。ニュートンだろうがアインシュタインだろうが数学だろうが、そして俺から言わせれば哲学も本当はそうだが、学問っていうのはまだ青臭い奴が基本的に担っている。知識人と聞いて4050を思い浮かべるようじゃ間違っている。
追記2:結果から逆算して記述されているものを、プログラムで明示的に記述して、その中からデザインパターンでやったみたいに共通点を探れば良い。何も難しいこっちゃ無い、中高生なら誰でもやっていることを明示的に記述して分析するだけだ。たった高校までの数学を簡単にして、また大学で習うような基礎付けを簡単にすれば、誰も数学は難しいなんて言わなくなる。職業訓練にもなるから挫折しても生き残れる。
投票批判っていうのは、現代においては大事なことなんで、違う語り口を思いつくたびに書いているんだけど、投票批判っていうのは3ステップなわけだよね。
1.投票は個人のスケールでは統計的に誤差だ。
2.じゃあなぜ投票に行くかと言えば全体のスケールで意味があるからだ。
3.全体のスケールで動くのは全体主義だ。
多分1と2に異論がある人は少なくて、3の、全体のスケールで動くのは本当に全体主義なのか、っていうことなんだろうね。
ただ俺は3が違って全体主義じゃないにしても、これは民主主義においては結構重要な論点であるべきだと思うんだよね。
ゴミだとかはまだ個人のスケールがある。ゴミを捨てたらそれは残るわけだし、液体の化学物質でも同じだし、分解されるにしても分解されるまでは残っている。
投票にはその個人のスケールが全く無くて、と同時に全体のスケールでは意味があり続けるわけだけど、その時に投票に行くかどうかっていうのは、もう少し問われても良いし行かない奴がいても良い(しそういう存在を認めるべきだ)。
これは目的の話とは違う。自分が他者の目的を目指すことができるように、個人のスケールでも全体の目的を目指すことはできる。
これは俺が普段言っている、理論の提唱に対して確率的に違うだろうという判断をしてはならない、という意見とは矛盾しないと思う。新しい理論は全てあり得ないような確率で出てくるわけで、その判断基準だと今までの全ての理論を否定してしまうことになるわけだから、確率的に違うと考えるなら「これは新しい理論なのではないか」という議論には関われていないし、その意味で否定や批判はできない。
議論は出現確率だとか権威だとかで無く直接的に考えれなきゃいけないし、俺にとっては同じような話で投票批判という議論はある程度は受容されるべきだと思う。
追記:俺の数学研究に勝機があるとしたらそこなんじゃないかという気がしている。