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2019年5月 facebook

2019年5月8日 21:28

最近、いろいろな所で俺をいなかったことにしようという約束のようなものが進んでいるように見える。人間は自分が決めたと思う少し前には脳内で決まっていると言うけど、それを思い出す。
俺は、例えば俺が当たり屋のようなことをしているという意見に、違うと反論する気は無い。そんなことをしても水掛け論にしかならない、そうかもしれないという可能性があるからそういう意見が出る、現にそうかもしれない。
俺の反論はそうでなく、例えば俺が当たり屋のような奴でそれを理由に理論を消すとして、あなたは次回からもそれを理由に消すんですね、そうじゃなかったら感情論ですよね、ということを言っている。
俺も現代人なんで、感情的には現代人と同じように感じて振る舞ってしまう。でも俺は俺の理論は検証可能であり、検証不可能だとしたら単に間違いであり、理論と意図ではだから理論の方が優先されると言っているわけだから、そういうことは問題にならないはずなんだよね。

追記:まあ後は制度論になるんだろうけどね。ただ、俺の理論が消えるという公算で、どこかで聞いたことがあるような価値体系で俺を批判するなら、それは反権威主義のように見えても単に権威主義なんだよね。

後日追記:少し前に書いた、個人のスケールで統計的に誤差であるにも関わらず投票に行くという現実に対応した概念が政治学にあるのかって話、少し違うけど「棄権のパラドックス」「無投票のパラドックス」「投票行動のパラドックス」みたいな呼ばれ方であるみたいだ、というか知ってた。これを重要問題だと考えて、少しは周りに啓蒙するような人間以外とは話したくない。

2019年5月21日 10:50

oculus quest買って残金3000円ぐらい。まあそれでなぜ働かないかと言えば、そりゃ研究するためだしね。金の切れ目は縁の切れ目というか、ほとんどはそこなんじゃないのかな。

まあそういう状況で何でquestを買ったかと言うと、俺自身もネットの限界を痛感しているからだね。結局人間はゲシュタルトを作る生物で、ゲシュタルト以外の所では生物でしか無いんだよね。
そして人間はゲシュタルトを作る生物として、ゲシュタルトを作りたがる。寂しいっていうのはゲシュタルトを作りたいってことなんじゃないのかな。

まあしかし、本当に盛り上がって無いなoculus quest。ネットの限界とか言って、まあふにゃふにゃな文章だけど、バーチャルリアリティーこそ長年コンピューターとかインターネット関連の夢だったろうにな。

追記:結局人間はプラスに評価されればプラスに評価し返すし、マイナスに評価されればマイナスに評価し返す。それだけ。

追記2:本に利点があるとしたらイメージの問題っていうか、記憶術で具体的に部屋と棚を想像すると憶えやすいと聞いたことがあるけど、それぐらいなんじゃないかと思うけど。しかし、これが出版業界との敵対ということになるのかね。

追記3:信頼性、反復、そして博打を打ち続ける存在である研究者がレーベルを使用する意義だとか、最近はそういうことをよく考える。文化の価値が文化人類学的なものであるということ、そして効率。いかに本質的な議論なのかが分かってない。例えばいろんな場所・時代の代表作家の代表作を1本ずつ読んでいくということの破廉恥さが分かってない。

追記4:ただ、部族を観察して旅行したがっていないなら、旅行はロマン主義がもたらしたものだと言えるだろうな。普通は宗教と結びついていて、ここでは無いどこかにもっと良いものがあるはずだという、そういう話な気もするけど。

後日追記:あのパラドックスについての記事を書いたり、そもそも研究したりした政治学者たちと比べればそこらの奴なんて素人だろうに、そのプロかどうかという判断基準による均一化こそがプロフェッショナリズムだろうに。いやあるいは、業界が判断するのがプロフェッショナリズムだったか、だとしたらそれのどこがどう権威じゃないというのか。プロフェッショナリズムを採用した途端、投票行動が統計的に考えると誤差で、それが問題になるということすら考えれなくなる。プロフェッショナリズムを採用した途端、それについて判断することが論理的に不可能になるわけだ、あの投票数で統計的に誤差じゃないなんてことは無いだろうに、そしてそれが政治学で問題にならないなんてことも無いだろうに、一切判断ができなくなるわけだ、プロフェッショナリズムによって。そんな世界において、いや”そんな世界”なんて形容をしても何のヒロイズムにもならないくらいに間抜けな話だと思うが(なぜ投票行動が統計的に誤差じゃないと思っているのか、あるいは統計的に誤差だとしても違う立場など黙殺して良いと考えているのか、人間は間抜けだ、お前は間抜けだ)、俺の取るべき行動は現に世界はそうだと認識して、諦めることだ。まだ公正世界仮説に囚われている、歴史や世界や現代やこの場所はこんなにも馬鹿げている。気付け、投票をしても統計的に誤差だ、そしてそれは問題だ。

後日追記2:もしそれに気付いたら、俺に説教をしていた分だけは絶対にそこに注ぎ込め、周りに同じ労力で説教をしろ。それが説教をしていた人間の責任ってものだろう。教えてあげてると思ってたなら教えてあげろ。是正しようとしていたなら、同じだけ是正しろ。もしそれができないなら、お前なんかもう一生説教はするな。

2019年5月24日 12:49

実は最近、こういう研究をしている。 https://after10.hatenablog.com/

数学の解法をアルゴリズムの観点から一般的に考えるという研究で、やっていて、少し前?に書いた理論上可能と現実上可能の区分とかが全てのジャンルの問題に適用される辺りで、分析が有効に機能している感覚がある。

これが今までの研究のまとめで https://sasaharayuugo.net/kurorekishi.html 、まあこういう研究計画があるなら、まだ人生を畳むのは早すぎると思うし、それならやってみようということになるわけだけど。

しかし、すっかり人間不信というか、本当のことに気付いたら、喧嘩になろうが例えば家族だとか身近には伝えなきゃ駄目だと思うよ俺は、例えばそれをしなきゃ戦前とか戦時中の人間は批判できないからね、どんな知識人にも論壇だとか輪ってものがあるんだから(今だってそれでどこにも伝わっていかないんだから)。それは俺とは関係無くそうだと思うけどね。
それで知識は伝わっていかないし、じゃあどうやったら伝わるかというと学会に認められて一気に伝わっていくということになるのだろうね。俺は書籍とは何かと同じように、論文とは何かを問うているわけだけども。

何かで挫折するたびに、それで溜飲を下げている奴がいるんだろうと想像されて嫌になる。例えば俺が論文を書いてそれで認められたら、大学教育を受けたような奴らの半分は大喜びだろうよ、理論的に間違っていても自分たちの努力が報われたって。

追記:しかし俺が卑怯だったと思うのは、何だかんだ未来人を味方に付けていた所だな。そして未来人を味方に付けないとなると、自分が消えるのがアリアリと想像できるわけだ。そこだろうね。しかし、俺が気に入らないから消すと思っているのかもしれないけど、俺はこのfacebookだとかを始める前にも何年も年季があるということは分かっておくべきだよ、その時気に入らないから消すなんて言ったやつは誰もいなかった、ただ狂っているとか思い知れと言っただけだった。だから端的に言ってお前のそれは嘘だよ、俺の性格がどうあれ同じ行動を取ったのだから。

追記2:俺が始める前は言語学っていうのはもっと複雑だった。今、言語学の本を開けば分かる。数学でも同じことをやりたいものだと思う。

後日追記:直接行動でどう社会に影響を与えるかを考えると、連鎖か配信だろうと考えていた。例えば爆弾が影響を持つのは連鎖だし、毒が影響を持つのは心臓という配信装置があるからだ。そして連鎖や配信を起こすには、身の回りのどこにでもあるものを使う必要があった。その一つが人間で、この投票批判は伝わっていきさえすれば強い影響を持ち得る。しかし伝わっていかないし、だから連鎖もしない。何というか、信頼性の問題なのかもしれない。一人一人の中では、統計的に誤差だしおかしいよな、という考えがあっても、社会的な生物として信頼性の問題で却下される。人間は声色とか表情を作るんで、何にしても一段下げて評価するというのが必要だろうと思うのだけど。歴史を反省してどうやったら正しい評価ができたか考えると、ちょうど一段下げるぐらいが一番良い判断ができたんじゃないかと。

後日追記2:まあ俺は不勉強なんでハッキリは言えないけど、おそらく経済とか啓蒙の観点で、当時は植民地支配は妥当に見えたんだろうなと推測するね。

後日追記3:そしてこれも直接言わなきゃ当然伝わらないんだろうなあと思うから言うけど、吉本隆明とか堀田善衛がやっていたことは、おそらく戦前の思想の輸入だよね。理性vs感性で感性だっていうのを、左翼っぽく言い換えたらウケた。特に全共闘においては、あれはフラワー・チルドレンの日本版なんで、隠蔽された愛国心でウケた。

後日追記4:今の文脈では民族自決の理論で批判できる。しかし欧米の植民地支配があって、そこの言語である英語とかを教えていると。こういうトラップをかい潜って現在と同じ結論に至ることができるかっていうと、普通の奴らができるかっていうと疑問だね。というか無理なんじゃないの。でも理性を使うってそういうことなんだよね。理路が無いということを認識した上で突破するというのが普通は理性を使うってことなわけよ。その点でこんなに丁寧に説明してるのに投票批判すら理解できないような奴は駄目駄目だよ、理路って意味では崩してあげてるのに突破できないんだから。

後日追記5:まあ俺も協力してくれれば行けるんじゃないかと思ったのは確かだから。でなぜ行けるかと思ったかと言えば、信頼性とか輪の中での目的の共通だとか、あとは集団の中の何%が同じ意見だったら感染するだとか、そういう所だよね。まあだからもう少しそこについて考えを深めてみようとは思うよ。今からでも協力してくれれば、社会を変えることはできるし、その作業という意味でも面白くもなる。未練がましいようだけど考えておいてほしい。そのイデオロギーに合った独特な芸術批評ができる可能性がある、意地を張らず何らかのメッセージを出してほしい、俺は文章は書けないが、だからこそそういう豊穣な協力の可能性が今ここにある。よろしくお願いします。

後日追記6:「脱ニート前に考えたこと」というタイトルは誰のパロディーでも無く、タイトルとは何かを考えて自分で付けたものだ。堀田善衛については2冊ほど立ち読みして、そうだと思ったが、ネットで調べたら虐殺の描写が出てきて違うと言われたら違うのかもしれない。一応訂正しておく。ただ読んだ本が悪かったのか印象は最悪だった。富山でも文化的には金沢に近い高岡で、しかも所々で下であることを武器にしているように見えた。それぐらいの工作ならしそうな人間に見えたが、まあ俺の偏見なんだろう。

後後日追記:もし性格の良い俺がいてそれで理論が認められている世界があったら、俺はそんな世界は気持ち悪いと思うけどね。あるいは内容自体を信じることができない、かね。俺は最初から、投票が統計的に誤差であり政治学的なトピックであり違う立場もあり得るのだということを、信じる信じないで無く考えて理解できる人間しか相手にしていない、検証できるように書いてあるっていうのはそういうことだし、そのための文体というか誘導だし、腹を立てている人間は結局はその文体に腹を立てている。そんなものに最初から正当性なんてあるはずが無い、今までの人間と同じようにだ。ここでお前はどうなんだと混ぜっ返すのは小学生と同じだ、俺の正当性はもう説明したが理解できなかっただけだ。あるいはわざと理解してないようなフリをしただけだ。

後後日追記2:今はニコニコと迎え入れられているヴィトゲンシュタインだとかピカソだとか日本だと夏目漱石だとかより、俺の方がよっぽどまともな性格をしていると思うんだがな。まあ、イーロンマスクが叩かれるような世の中に意味なんて無いに決まっているが。彼は消えるのか生き残るのか、叩いている奴は消えると思っているんだろうが。

後後日追記3:で、普通が一番だよねって、そいつが叩いてたんだから信じられねえ。

後後後日追記:残る選択肢は学会での発表と、東京での文学フリマぐらいだよ。学会での発表も通るかどうか。その2つとも駄目だったら、『「投票行動のパラドックス」を啓蒙する会』という名前で、極左版のネット右翼みたいなコミュニティーでも作ろうかと考えている。短い期間だったけど、自分の考えをトレースして話すような人達を見るのは奇妙な感覚だった、ちょうど自分で想像してみたらそのままだと思うけど、僅かに嬉しい気持ちがありながら何をしているんだろうこの人達はと思った。自分もそういうことをしがちだったから、自分もそういうことをしていたんだなと思った。なんであなたたちが私を評価したのか分かってきたけど、要するに自分たちにとっての権威が評価したからでしょう、でも俺はこのままだと消えるよ。何に反抗しているのかが分からない。

後後後日追記2:学会で認められて世間を喜ばせることだけはしたくなかった、具体的には社会人を目指す中で数学とかに牙を切られて、お前も思い知れと思っているような奴らを喜ばせるようなことだけはしたくなかった。それはニーチェだとかの脳神経的な話では無く(何も遠慮せずに言うなら「力への意思」とか「この人を見よ」とか言っている人の著作を読むのは行為として矛盾している)、生物的に誰でも持っているはずの感覚なわけで、だから「投票行動のパラドックス」について分かってほしかった、何なら「投票行動のパラドックス」は俺個人の意見ですら無いわけだから。「投票行動のパラドックス」が広がっていかない世の中は知的には空虚だし、一方で投票はアンケートでもあるわけだからそれに逆らうことにはあなたたちにとっても意味があるし、もう既にある権威には安心して乗れるかもしれないけど、権威にならない可能性が十分以上に高い存在と協力してみる気は無いかい?

後後後後日追記:学会のポスター発表も、どうも論文と同じような形式が必要みたいで、分量的にもベーシック・イングリッシュの理論を発表するのは無理だろうな。ベーシック・イングリッシュの理論単体だと、もうほとんど必然的に学会からは出ず、だから誰に連絡を取ってもフェアなルートを通ってないという理由で無視されて、まず消えてたわけだ。「投票行動のパラドックス」も知られてないし、その偉人も果たして本物なのかね。2017年みたいに他人に伝えるには本当に大きな労力が必要なんで、今は理論の蓄積を優先して、世に広めるのは35歳以降にしようかと考えている。バイトもしなければいけないから最低でも週に1日は潰れるし、文学フリマに持っていこうとしたら2週間は潰れるし、日本語学会のために求められているものを調べていたら何ヶ月潰れるか分からない、それだって空振りするかもしれない。それも一つの考え方なんじゃないかという気がしている。まあ既に印刷してある日本語論を持っていつか東京の文学フリマには行こうかと思うけど、まあやってみないと分からないけど、日本語理論発表の場として機能しているとは思えないんだよなあ。大学で論文しごきみたいなのをやっているらしくて、たかがフォーマットに馬鹿らしいと思うけど、そんなことをやっているから既にある俺の理論を受け入れることができないんだよ。俺も出したいし、出たら世の中もハッピーだしで、なんでそうならない。何だよ論文しごきって、気持ち悪い。

後後後後日追記2:まあそれもこれも、「フローチャート」と明確化せず、例えば言語哲学ではコンスタティブとパフォーマティブとか言ってるレベルだからそうなる。調べてみれば良い、同じ文でも、集合論の文脈に置くか、フローチャートの文脈に置くかで違ってくると言っているだけ、それさえ分かれば簡単だ。なんでそれをコンスタティブとパフォーマティブなんて説明する必要があるんだ?まあでも「投票行動のパラドックス」とか見てると、そういう話ですら無いのか。本当に俺は消えるだろうな、だからこういう言動になっているのが傍から見たら分からないんだ。大体なんで世間は子供を虐待したヴィトゲンシュタインとか夏目漱石を許しちゃうんだよ。

後後後後日追記3:久しぶりに写真を撮ったら、何枚撮っても嫌味な人文教授という感じで参ったな。何とか愛嬌のある写真を1枚撮れたが。

後後後後日追記4:最近はこれからどうするか迷っているが、『「投票行動のパラドックス」を啓蒙する会』はやめにした。あの理論は事実ではあるし啓蒙されるべきだと思うが、感情的に広げるとあまり良い結果にならないような気がする。政治学あるいは政治経済学からあの理論が出てこないのは、外からはプロフェッショナリズム、内からはあくまで学問は記述的なもので正解を啓蒙するものでは無いという考えがあるからだろう。こういう不幸なスレ違いはよくあって、例えば注射や歯医者も痛みを弱める手段はあるだろうに(いや、前の歯医者の時は麻酔クリームと痛み止めの薬を飲んで少し弱まった気がしたけど。麻酔クリームが理論上全く効かないということは無いと思って塗った。注射も麻酔テープのようなものを貼れば、理論上全く効かないということは無いんじゃないかな)、外からはプロフェッショナリズム、内からは回転率や人手で結局はこうなってしまっている。

後後後後日追記5:まあしかし俺も疲れたね。あの言語理論は理解されないし、「投票行動のパラドックス」もフェイクニュースだと思われるし、本についても色々書いて敵視され、論文も検証を目的にするならあの形式に限らないと言っても駄目。糸井重里とその取り巻きに半年間悪く言われて、周りも気付いているだろうに、俺の妄想だということが既成事実みたいになって。馬鹿馬鹿しいよ。

後後後後後日追記:と思ったら日本語学会はパソコンとか持ち込めるのか。7月10日までに1万の年会費を納入して、通ったらそれから旅費を稼がなきゃな。

後後後後後日追記2:在野の研究者がどうやって稼ぐかを調べていて思うけど、俺というのは客観的には哲学におけるアールブリュット、アウトサイダーアート的な何かなんだろうな。アートはシャーマニズムだっていう俺の持論には悪影響だろうけど、客観的にはそうだよな。

後後後後後日追記3:まあというのも、文化人類学的または精神分析的な批評とか言われても、お前のことじゃんとなるだけだからね。まあ俺から見ればアートはどう見てもシャーマニズムとして昔やっていたことを今もやっているだけだし、だからアートへの批評であれば社会だから文化人類学的な構えであった方が良いのではないかと思うし、また批評の種類としては精神分析的な構えのものがあっても良いのではないか、という。そこまで遡れば、例えば民族の絵だとか踊りだとかでも(外と比較して)フォームがありきたりとかいう批判はしないと思うんだよね、そんなことを言うならそっちが出ていけという話で。そういう批評がちょうどコンピューターが発達しきっていない現代にあっては、商品としても面白いものになるんじゃないかという、俺はやらないけどね、文化人類学なのだということさえ弁えればそれも良いんじゃないかという。

後後後後後日追記4:こんなに正しいことばかり言っているのに、顔が悪いから何だと言うのだろう、あるいは精神性が低いから何だと言うのだろう。精神性には知性と同じ言葉の曖昧さがあって、要するに精神が良いということでしょう。しかし例えばその人間の中で様々な目的への動きが邪魔し合う傾向にあるとして、それがなぜ他者や社会に関係するのだろう。例えば俺は内部は悪いかもしれないが肉は食っていない、精神性が高い人間はそれでも肉を食っていたりする、これはつまり外部は関係しないということなのではないか。その人間の中で上手く行っているとして、だから社会的または他者として何なのだろう。

後後後後後後日追記:まあ、少なくとも言語論が出たら絶対に読むだろうなと思って書いてるけどね、もう出るかどうか怪しくなってきている。まあ俺はキチガイなんでね、スペックはどうだか知らないが、やってることのデカさということで言えば俺の方が昔のどんな日本人よりも圧倒的に上だと思うけどね、もし超常現象があったとしても俺がオリジナルでアニメがコピーだ、ドキュメンタリーのこんなものを映画にするのかだとか、海を見てるシーンの先にカモメがいた辺りでそうかもしれんなと思ったがな。まあ俺は無粋な男で、むしろそれこそが核ですらあると思ってるんでね。『若き日の詩人たちの肖像』が堀田善衛の自伝的作品なら、確かに俺の間違いだった、吉本隆明や堀田善衛のモチーフには、マルクス主義や当時の思想では説明が付かないものが多いような気がしていたんでそう書いたが、確かに間違いだったんだろう。しかしいつか読む時のために断言しておくが、「投票行動のパラドックス」を説明する際に使われているモデルは、単に自分たちが投票に行く際の動機を図式化しただけのもので、逆にあのモデルが理解できないならなぜ投票に行っているのか分からないし、あのモデルが理解できたなら、アンケートに参加するのが義務であり権利であるという立場と、アンケートに参加するのは義務でも権利でも無いという立場、その二通りの立場があり得るのだということぐらいは分かりそうなものだと思う。昨日の書き込みは別に宮台真司氏に書いたものでは無いが(間違えて地上波の方を見ていた)、俺はどうしようも無い人間なので宮台真司氏とか大塚英志氏とかネット知識人とかを見てしまうし好きだったんだが、他の左翼の人間も含めてあまり俺をがっかりさせないでほしい、そこを誤魔化してはいけない。

後後後後後後日追記2:やはり俺は生物としてシャーマニズムを求めている。しかしそれは今までの人間のような国家と結びついたものであって欲しくない。俺は技術が拠り所になってほしいし、そのためには世間に現象の存在を知らせなければならない。

後後後後後後後日追記:俺は今回の件に関して、美術家は楽なポジションにいると言えると思うんだよね。普通の人間はアルファブロガーだろうがアルファじゃないブロガーだろうが、フォロワー数何人だろうが問われている。美術家は俺が消えようが消えまいが問われていない、嫌味で無く客観的にどう考えてもその役割を期待されていない。だから人生が終わる時にも後悔しようが無い。