sasaharayuugo.net

2019年6月 facebook

2019年6月3日 16:51

2019年6月6日 15:30

http://d.hatena.ne.jp/knakajii/touch/20131002/p1

後日追記:ソ連・中国・国連・EUで、何が同じで何が違うのか、というのは面白いテーマじゃないかな。統治形態が独裁制・寡頭制・民主制の3つに分けられると言う人にとっての国連というのは一体何なんだろうな、あれは明らかに一つの統治形態だと思うけど。「投票行動のパラドックス」という概念がある以上、やはり二種類の人間は現にいるのであって、それが代議制民主主義の穴ということになるだろうね、なぜ穴かと言えば代議制民主主義が民主主義だからなんだけどね。現在の投票率が50%で、これは30%までは少なくとも下がると思うけど、そうなったら代議制民主主義は思想的には終わりだね。

後日追記2:昨日、母が録画していた連ドラを見る機会があって、キツイなと思ったけどね。しかし堀田善衛の件は、検証できるように書いているわけだ。もし「若き日の詩人たちの肖像」がほとんど実際の話なら、そういう人間関係の中で辛い思いをしたわけで、俺の話は部外者でトンチンカンで、だから俺に大ダメージということになるだろうね。でもそうじゃなくてあのタイトルがエクスキューズなら、これは相当に怪しくなってくるわけだよね、確定では無いにしろ。そこが俺と、他のそれと分からないように俺を批判して(だからお互いにもほとんど気付かない)ツイートも消えるだろう奴らとの違いだよ、俺は検証ということでもこんなに不利になっているんだから。「投票行動のパラドックス」の話を無視したい人間にとっては格好の口実だろうな。

後日追記3:モデルになった人間を調べると、一緒に本を書いていたりして、認めざるを得ない。しかしこれで、上として下を尊重しなければならないというような視線に後世から晒されるとしたら不本意であり、また俺のような存在が出てきたら途端に敵視するというのもそれはそれでどうかと思うし、じゃあ対等かと言えばそうでも無い。目に入った一人というのが一番実態に近いのだろうし、俺は今まで「他の人は分からない〜」と頭の中で流れてきて、そりゃそうだ分かってるよというような問答を100回ぐらいはやってきて、まあそのたびに内心恥をかいてきたわけだ。あのドキュメンタリーを見て、なんだか申し訳ないなと思わなければ、ベーシック・イングリッシュの研究はしなかったわけで、俺にとっては重要だが、「映画に変えられる程度の人生なのか」というのも30回から50回はやっているんでね。更に2016年からは1日に1回か2回は〜、とか言っていても、俺のことを批判している奴なんて一人もいないという話になっていくだけだから、もういいし、なんだか関係無いと思えばそれが正確だろう。ただ「投票行動のパラドックス」が本当だというのは、最後に言っておくよ、そのたびに俺は敵意を感じるんだがね、調べて貰って投票の動機に関する簡単な数式を見れば一発で分かるはずと思うがな、届かないのだろうが。

2019年6月10日 11:33

上下の分断を何とかしたければ、最終的には国際的な最低税率の制定を目指していて、今はそこへの過程なのだという社会的な合意を取れば良いだけなんだよ。
なんでそれっぽっちのことも分からないのか。どうも人間を疑ってしまう。知性があるのに言わないやつがいるんじゃないのか。上下の分断を解消しようとしていないか、実際にこのまま税率を下げていこうとしているか、そのどちらかなんじゃないのか。
実際に三択だと思うけどね、上下の分断を解消しようとしていないか、思っているよりずっと知性が無いか、このまま税率を下げていって国家の消滅を理想としているか。そのどれにしても、人間観は変わらざるを得ない。
(これはエアリプでは無い。流石に別件だろう)

追記:確かに堀田善衛の件は悪かったが、そもそも俺がデマやフェイクニュースばかり言い放つというのも、選挙中によくあったデマや当てつけの類なのだし、確かに批判する時は普通にもう少し慎重になるべきだったが、だから専門家以外は歴史認識を提示できないという言説を肯定するべきでは無い。嘘を言わず間違ったと思ったら訂正すればそれで良い、そしてそのレベルで信用できなかったら、これは俺が言っているような違う問題になる。そもそもフェイクニュースでトランプが当選したというのもデマや当てつけの類で、実際にはトランプは国境に壁を作ると言ったから当選したんだ。堀田善衛の件は確かに俺が悪かったが。

追記2:トランプに入れたのは人間だし、糸井重里の件も実際には何が起きている?(あるいは起きていたか?)。俺を信用しろとは口が裂けても言わないがな。なぜこの時代に来て一気に人間が信用できなくなったんだろうな。あの三択のどれかではあるんだぜ。

2019年6月13日 15:30

投票行動のパラドックスについての本を読んで、知りたかったことを二つ知ることができた。

今まで俺が言っていた政治経済学の「投票行動のパラドックス」っていうのは、つまり

「P×B+D−C」
(Pが自分の投票行動が結果に影響を与える確率、Bが利益、Dがdemocratic valueとかdutyつまり民主主義的価値とか義務、Cがコスト)

が0以上の時に投票に行くと考えた時に、合理的な個人は投票に行かないということになるんじゃないかという話だ。
このモデルはダウンズのモデルをライカーとオードシュックが改良したものらしい。今回の本には載っていなかったが、まあ現に普通の人間はこういうことを考えて投票に行っていると思う。
でこのDというのは自分の一票の民主主義的価値とか義務なんで、まあ自分の一票が民主主義の持続に寄与すると考えるかどうかとか、寄与しないとしたら義務として考えるかどうかだとかで、少なくとも行く奴と行かない奴の二種類は出てくるはずだ、というのが今までの俺の意見だった。

今回分かった一つがPの最大値の求め方で、投票総数が「N*2 + 1」の時、参加者のそれぞれが候補者A・Bに2分の1の確率で投票する時に確率が最大になるとして、「1 / √(N×π)」という結果になるらしい。計算過程としては、最初の半分が一方に、それ以降がもう一方に投票する場合が「2のN乗分の1」で、しかし半々になるのはそれ一通りで無く何通りもあるので、スターリングの公式だとかでそうなるらしい。今回の本では詳しくは説明してなかったが。
有権者の数が40万1人の場合は、「1/√(200000*3.14)」で「0.00126188616」。792回やって1回という確率らしい、「√(200000*3.14)」で出せるみたいだけど。
これはもちろんアンケートとしてそれぞれがどっちでも良いと考えている場合の結果で、多いと感じるか少ないと感じるかは人によると思うけど、少なくとも俺が思っていたよりはずっと多かった。

でもう一つ分かったのが現在の政治経済学でこの問題がどう考えられているかで、トーマス・パルフレイとハワード・ローゼンタールがゲーム理論のナッシュ均衡で説明して解決しているということらしい。
ナッシュ均衡というのは、ゲームの状態(追記:訂正、それぞれのメリットとコスト)をそれぞれが知っていて、その上で誰も現在の(追記:訂正、現在を知る必要は無いしだから以下の説明は間違い)手を変えない状態のことで、例えば誰も投票していなければ投票するという風に手を変えるはずだし、ちょっと負けているぐらいなら例えばちょっとした組織票で引き分けまで持っていく、その連鎖反応で支持率が半々ぐらいなら結局は投票率は100%近くなるのだ、という話らしい。支持率が半々じゃなくても支持されてる方が結局は取ることになるし、まあ出口調査とかで投票率とかは分かるんで、合理的な存在でも現在のシステムのままで上手く行くらしい(最終手段としては、票数の変化をほぼリアルタイムで公開しても良い)。

こうなると俺も投票に行くべきか考えているのだけど、まあそれでも俺は行かないことにしようと思っている。現在の人間は票数を調べて棄権するという選択肢を持っていないし、その場合はゲーム理論は成立しないだろうと考えるからだ。
しかし「投票行動のパラドックス」が代議制民主主義の穴だというのはやはり違うのだと思うし、これからは言わないことにしようと思っている。

追記:実際の本の中での説明では、支持者が半々で、コストとメリットが全員同じで、それぞれのコストとメリットを知っている。得票同数の場合は抽選で決めて、コストはメリットの半分を下回る。全員が投票すると仮定すると、誰も棄権しない、自分だけ抜けがけすると一票差で負けるから。これはスザンヌ・ローマンによる簡略版に本の著者が若干の修正を加えたものらしいが、そのローマン曰く「より一般的にいうと、双方の支持率にあまり差がなければ、投票率は100%に近くなる」。なんか説明として俺には納得できなかったからこう書いたけど、普通に間違っていたかもしれない。俺の説明では多分党が強くなってしまう。

追記2:とすると投票するべきという結論になるのかな。公開されていれば、2票差でも1票入れれば1票入れることが合理的になり、3票差からも同じパターンに持ち込めるから、そうなるということが俺にも分かるんだけどな。いや、本当にそうなのか。投票するべきなら、政策を勉強しなきゃいけなくなるんだけども。ゲーム理論なら合成の誤謬とかじゃないのか。そこら辺を詳しく書いてほしかったな。

追記3:これで俺が投票に行くようになって、共産主義者が仲間が増えたと喜ぶように喜ぶのかもしれないが、俺とお前は違うんだということは言っておく。なぜなら考えて動いているということが一つの結果だからだ。相手が考えているかでこちらもどう動いたり啓蒙するかが変わってくるわけで、この思考過程を通ってない奴はダウンズ以前でしか無い。あと〇〇の方が凄いと言ってくる奴がいるけど、〇〇を読んでいるからと言ってお前が〇〇なわけじゃない。評価ということなら、原理的にはどれだけ目的に適合しているかで、つまり〇〇を読んだ結果どれだけ目的に適合したかだけが問題になるはずで、〇〇を読んだから評価するなんていうのは、〇〇自体が目的か、保護者とかシステムが仮に与えている評価かのどちらかなはずだろうと推測する。

後日追記:県立図書館で調べていくつか分かったことがある。まず「ダウンズのモデルをライカーとオードシュックが改良したもの」と書いたけど、実際にはダウンズは元々の文章ではモデルは示していなかったらしくて、それをモデル化したものの一つがライカーとオードシュックのものらしい。あと、県立図書館で調べる限りでは、ゲーム理論によるパラドックスの解決は書いていなかった。困ったなと思っていたら、今調べたら、索引で細かい説明が載っているとされている文章をネットで見つけた(元々見つけていたが、この文章だったかという感じだ)。 https://www2.rikkyo.ac.jp/web/murase/paper/95vote.pdf 分からん、がやはり結論としては意味が無いってことで良いんだろうか?同時ターンという意味では不完全情報ゲームで、俺の懸念に反してそれは問題無いのだが、各人のコストとメリットを知っている必要があって、現実では知らないのでパラドックスは解決できないと結論されている。まあ今は分からんが、数学を研究していたらいつかは分かるようになるだろう(これ経験則ね、哲学でも言語学でも同じだった)。ちなみに元々読んでいた本は「ライブ・合理的選択論 -投票行動のパラドックスから考える-」だけど、この本自体はあまりオススメでは無いかな。まあ本当に意味が無いなら、そこをストレートに突けば革命を起こせるんじゃないかな(平均コストとかメリットとかで何とかなる気もするけどな)。

後日追記2:政治経済学っていうのは、あくまで個人の合理性で政治を考えるという体系で、そもそもパラドックスっていうのはだからパラドックスなわけだよね。あのDっていうのも、ライカーとオードシュックの最初のモデルには付いてなくて、現実を説明するために後から付けられたものらしい。そのDも、義務を果たした満足感とか、そういうあくまで個人的なものだった。こう左翼とかに批判されている中だから言いにくいけども(最近は批判されてないのかな?)、元々ぼんやりとは知っていて、それで「少し違うけどもうすでにあるみたいだ」と書いたわけだけど、まあそれでも大体同じだとは思って紹介したんだけどさ、Dっていうのに本当の義務感を含めたとしてもあのモデルには収まるわけだし。ゲーム理論によるパラドックスの解消っていうのがちょっとよく分からないので、分かるまで政治からは手を引こうと思っている。引いた後の俺っていうのは何なのかなというか、貨幣論にしても社会を変えうるような説得力のようなものって投票批判から来ていると思っていたのだけど、理論的に自分という目的にとっては自分というのが価値なわけだし、何なのかなという感覚が生じる時点で自己を確立できていなかったと言えるのかもね。

後日追記3:あの数学研究は、結構良いものになる確率があると思うんだよね。計算量が無限にかかっても解ければ良いという理論上可能と、計算量的に現実上可能の区分で、理論的に可能なように記述してから、それの計算量を削減するという、二段構えの記述ができるようになったら、もっと高校数学とかの問題っていうのは直線的・体系的に解けるようになると思うんだよね。まだ構想段階でしか無いけど。グラフの問題とかも、難しいのは計算量を落とすことで、理論的に可能なように記述するのはそこまで難しく無いんじゃないかという気もしていて、そういう意味でも思考をクリアにする研究だと思うのよね、まあ読んで貰えれば大体分かると思うけど。まあ今は足踏み状態だけど、じわじわと発見はあって、そういうものだから。中距離走的というか、1日15分で1つ発見して、それを一年半続ければ500集まって一つの理論ぐらいにはなるわけだから。小説家が4時間なら、学者は2時間ぐらいだと思うよ俺は。

後日追記4:ま、ちょっと見てなさいって、今整理している所だから。不安だから苛立っているっていうのもあるんだけどね。

後日追記5:ゲーム理論ねえ、今冷静に考えたら無理筋という気もするけど、まあ分からないんでノーコメント。というか皆、俺のベーシック・イングリッシュ理論を理解すれば良いのに( https://medium.com/@0h0n0/e3e429688456 )。こういうプリミティブなものを分からない人たちに、あんまりゴチャゴチャ言われたくない。俺の投票への問題意識も、あの数式で結構同じようなものが表されてるけど、単純も単純でしょうに。2015年のベーシック・イングリッシュ理論( https://medium.com/@0h0n0/18429d1b8d73 )ができてからだよ、自分のことを頭が良いと思うようになったのは。何をやりたいかぐらいは分かるでしょうに、受け入れられないと分かってすっかり気が狂っちゃったよ、まぐれ当たりで言語論は変わると思っていたが。俺は天才なのか、そんなはず無いでしょうに、という具合だったよ当時は。若者扱いしていた周りの評価と入れ替わる形になったけど、俺の自己評価は常に正しかったと思うよ。あの「田舎ニート」も、最初に50?ほどアイデアを書き出して3ヶ月ほどしか続かないんじゃ意味が無い。

後日追記6:言語論はどんな時でも自分を支えてくれる。ブログとかSNSとかは明らかにそうじゃない。嫌われてどうでも良いと言われたら、例えば貨幣論とかも流されてどうでも良いということになってしまう。言語論はどうでも良いと言われても、お前の目が節穴なんだとどんな時も確信を持って言える。ベーシックイングリッシュの前も、どんな時でも自分の中での評価が変わらなかったのは言語論関係だった、今見ても昔と同じ評価が出てくる。成功したものに限るけど、成功したら同じ評価がずっと続いていく。たとえ同じ理論が見つかっても、自分の中での評価は変わらないと思う。普通に自分でシミュレートしてみたら分かる話だと思うんだよね。例えば自分で数学理論を作って、それと同じ数学理論が既にあったとして、どう思うかっていうとそんなにマイナス方面じゃないと思うんだよね。これは不安だから書いているわけだけど、だから今からやるなら今までやってきたような他の何でも無く、この数学の構想だと思うんだよな。

後日追記7:本当にシケてるなあというか、顔にしろ言動にしろ。俺は最初からそうだけど、天才は孤高とかそういう感じじゃ全然無いんだよな。まあでも人間は人間が思っているよりずっとおかしいんだよ、投票もそうだし。それを自覚して貰わないと何も始まらない。数学にしてもこういうひっくり返し方をされるとしたら異常なんだぞと。ダウンズも結構最近の人間で、その前の人間はどうだったんだという話だし、でゲーム理論で結論が投票は無意味だったら、人間の頭が良かったらそんなやられ方をするはずが無いんだよ。ベーシックイングリッシュもそうで、ベーシックイングリッシュを分析してやられるっていうのは、俺の成功という以上に今までの言語学者の、それをプロフェッショナルと崇めていた人類の失態と考えるべきなんだよ。根暗な事を言って悪いけど、シンプルに言ってそうだと思うんだよ。俺の発見っていうのは全部基本的にそうなんだよ、俺の発見という以上に今までの人類の失態なんだよ、貨幣論もそう。なんでそれぞれにとっての交換の最適化で相場が立ち上がって、何でも貨幣になると思わなかったんだ?よく考えた方が良い。例えばそれで貨幣が説明できていると思うとする、貨幣論を調べてみれば分かると思うけど、これは大事件なんだよね。何が大事件かというと、これは俺という天才、シャーマンが大事件なのでは無く、どう考えても人類の方が大事件なわけよ。

後後日追記:研究っていうのは、その一面は、社会との洗脳の戦いなのかもしれない。常識と戦うっていうのは、どうもそういう側面がある。例えば数学研究も、考察はもう用意して、書くだけなのに壁があって一歩踏み出す必要がある。こうなると教団内部の教義に反論するのと、社会の常識に反論するので何が違うのだろう。貨幣論が短いし違う陣営だから分かりやすいんじゃないだろうか。というか、俺を論理以外で押し流そうとしているのを見ていると、そういう振る舞いって何が違うんだろうか。別に俺だけで無く、そういう振る舞いはありふれている。

後後日追記2:プロフェッショナリズムも論文とか学会も、現在の制度に過ぎない。

後後日追記3:ちなみにアンソニー・ダウンズの研究が1952年で、トーマス・パルフレイとハワード・ローゼンタールの研究が1983年ね。ゲーム理論による解消が正しいかはともかく、1983年までは何かの間違いでひっくり返ることもあり得たわけだよね、共産主義みたいに。というかそれが分かっていなかったなら、ルソーとかのも間違いでひっくり返っただけなんでさ。このゲーム理論による解消の研究はもっと注目した方が良いよ、例えばコストとメリットの平均を想定することで何とかなるかだとか。今現在の俺の予想では、多分一人でも非合理的な奴がいたら成立しなくて、でも話としては関係無いけど投票状況が分かっていたら成立するので、投票状況を調査して合理的に影響を与えるようになる。こういう知識こそ学校で教えれば良いんだよ、いや俺の予想が正しいかはともかくね。誰が誰に入れたかが分からない程度にリアルタイムに票数を公開しても良い、それなら一票入れることが合理的になるし、結局は支持されてる方が勝つ。確率的に意味があれば良くて一票差で勝つ必要は無いし、最後らへんで逆転されるたびに日数を伸ばせば変なテクニックも発生しないだろう。最後の日に一気に投票しても影響を与えないし、やった団体や支持層が無駄なことをするなと批判されるだけで終わり、次第に意味が無いことが学習されてただのテロ行為になる、それに対する防衛も作法として定着するだろう。どうせ当選するなら行かなくても良いということにはならない、負けていれば入れる奴はいるから、早々に学習されて、毎回100%近くまで駆り出されることになるだろう。

2019年6月20日 20:29

ゲシュタルトっていうのは結局は嘘で、例えば家族との表面的な心温まるようなやり取りがある一方で、実際の本人の動きっていうのは違う。これはあらゆる人間関係に言える。
これは人間の自己像もそうで、ほとんどの人間は自分が思っている自分とは違う。俺も明らかにそうだし、この状況から推測するに、現代でもほとんど例外はいない。
便利になった分、化けの皮が剥がれる機会が少なくなっただけで、何も変わっていない。それどころか、過去においてすら日常は保たれていたかもしれない。

追記:今日昼にモダニズムに関連する展示を見る機会があって、俺っていうのはモダニズムだったんだなと分かったね。近代っていうのは中世と論理の間なんかでは無く、工学だったんだなと思ったな。そしてそれで嬉しく感じる自分もいて、そういう鎖を喜ぶのがイデオロギーの恐ろしい所だなと思ったね。いや、それでも鎖から逃れるにはフローの根っこ側では無く先っぽ側の工学なんだと思うし、鎖を嫌がるのはどの動物でも一緒だと思うし。しかし啓蒙、つまりenlightenmentっていうのは、理屈が悪いという風潮への反論だったんじゃないか。

追記2:あと、それとは別件で、こういうことも思う。主体というのはセンサーで(自分とは主体だろうか、集合や存在でもあるのではないか、例えば手は主体というより主体が感じるものだが、手も自分だし、存在だ。体内の無感覚な部分も自分だ)、弁証法はデータをすり合わせているだけなのではないか。

追記3:この期に及んで人間や人間の作り出した価値観(例えば釈迦だとか)を信じている奴はアホだと思うし、人間を信じないとなると目的論的というか工学的に考えるしか無い。

追記4:人間を信じてたら論争なんて起きないんだよ。人間は嘘をつくと思っているから論争が起きるんだ。この状況を説明するモデルとしてかなり精度が高いと思うけどな。

追記5:大体、思想はシャーマニズムだと指摘した時点で、本当は次のステージに入っているはずなんだよ。メタフィクションみたいな状態になっている。いくら俺がシャーマニズムをやっても、ツッコミが入る状態になってるんだよ。だからそれも思想だと指摘しても、そこで終わらず俺の反応も含めてもう少しややこしいやり取りが発生するはずなんだよ。

後日追記:twitterを読む時期と読まない時期があって、最近は読まない時期なんだよね。たまに読むけどまあ後悔するね。まあそれはともかく、自我についてはこういう事を思う。もし自分が回路の一部で、赤の信号が来たら世界全体が赤になって、青の信号が来たら世界全体が青になるとしてみる。あるいは、自分が電気として回路を進んで、赤の場所に来たら世界全体が赤になって、青の場所に来たら世界全体が青になるとしてみる。人々が自我の原理だと思っている偏りだとかは、この電気的な性質に過ぎないんじゃないか。それを(追記:フローで無く)集合として捉えるからおかしくなるだけなんじゃないか。自我っていうのは偏りだとか以外の何かなんじゃないか。

後日追記2:その前提にもう自分がいるじゃないか、というツッコミがあるかもしれない。まあそれはそうだけど。ただ仮に、電気に意思があるとしてみたら、この説明でOKになっちゃうと思うんだよね。いやそうだと言っているわけでは無くて、つまり偏り以外の何かなんじゃないかという話なんだけど。まあ個人的には、人工無能とか占いとかの符合っぽさは有力だと思う。

後後日追記:(フローで無く)、を付け加えた。西洋東洋限らず、哲学の間違えてはいけないとか間違えているはずが無いという前提自体が、ある種のシャーマニズムだという気がするけど。そりゃシャーマンは間違えてはいけないわなという。まあでもヨーダ化するのも良くないからしっかり明確化して言うけど、偏るっていうのはフローの性質なんであって、意識の原理では無いと思うんだよね。それは集合であるというのが意識の原理だと言うのと同じことで。

後後日追記2:シャーマン化を避けるには、自覚して気をつけて指摘し合うしか無いと思うよ。あと、社会的生物として敬意は必要だと思うかもしれないけど、人間はハッタリばかりで大したことないし、必要だとしてもバイアスとして働くということは知っておくべきだよ。そんなことを言ったらソクラテスとかを思い浮かべるのかもしれないけど、ぶっちゃけソクラテスは大したこと無いよ、記憶力とかリアルタイムの議論は凄かったのかもしれないけど、本質は大したこと無い。ヴィトゲンシュタインも大したこと無いし、俺も文学とか芸術とかの精神分析にありがちな無意識っぽさを抜けば、本質は大したこと無い、ベーシックイングリッシュは良かったと思うけど。計算機科学も数学で計算機を捉えるという話で逆だと思うし、人間の自己イメージと比較したら人間は大したこと無いよ、投票とか貨幣論とか肝心な所で間違えるぐらい。

後後日追記3:俺は質に関してはプレイヤーが語るべきだという立場で一貫している。スポーツ選手にしろ小説にしろアニメにしろ何にしろ、成立するなら喧嘩でも何でも経験的にそっちの方が楽しくなる。批評家は文化人類学者のように社会の内部の評価とは関係無い所でやるべきだと思う、これも文化人類学者と同じく内部の人間には嫌われるかもしれないが、批評もそっちの方が楽しくなるし、そっちの方が批評というものの本質にも通じると考えている。俺は虫の模様とかと同じで文化活動には終わりが無いと思っているし、求愛ダンスとか歌舞伎みたいに何にせよクオリティーってものはあるはずだと思っていて、だからそこら辺が昔から批評だとかについての俺の結論なんだけどね。俺はベーシックイングリッシュの最初の理論ができたSNSポエム的な時から、それを世に出そうと模索してきた。でまあ客観的に出ない可能性が高いと分かって、怒っていた。今は日本語学会とベーシックイングリッシュ研究会と東京文学フリマで、客観的には30%無いと思っている。でもまあ、世に出ると思っているなら、大失敗の人達は俺の批評観のどこが間違っていると思うのか書いておけば良いと思うよ。

後後後日追記:何が厳密な議論ができないだ、哲学者共め、100%認めてやるよ。俺はその間に言語学と数学をやる。

2019年6月27日 20:39

他者を読み解く時、または自分を他者に語る時には、その語り口は哲学的、批評的、文化人類学的なものにならざるを得ないんじゃないか。
いやすぐさま詩や物語という反論が思い浮かぶし、それは妥当だと俺も思うが、だとしたら詩や物語の普遍性というのは何なんだろうか。
論理を使えば、共感しないまま同じルールに乗ることができる。経済や政治なども言語で、そういうルールの一つだ(論文問題とかも結局はそうだろう)。それに対して詩や物語の普遍性とは何だろうか。

追記:ただ詩や物語が良いと言っている奴を、俺は少し軽蔑しちゃうね。それはその体制にいた人間が、引き続きその体制を肯定し続けようとするのと同じだから。

追記2:普通に考えれば、まとめる前の時点でどこにでもあるものだろう。哲学とか生物学とかマテリアルとか。そうじゃないものがあるとしたら面白いよね。

追記3:静と動とか、アウトサイダーとインサイダーとか、そういうのはトーテミズムの一種という気がする、というか歴史的にも本当にそうだと思う。どっちの食べ物が好きかっていうのより下等に見える、構造自体は価値判断を伴わないはずだ。俺にとっての工学っていうのはそうじゃない、俺にとっての工学も所詮は言語構造だが、価値判断と言えば工学なんだ。

追記4:自分の目的のためにあえて整合性を取らないのはズルに見える。人間は自己イメージよりは馬鹿だから整合性を取れないこと自体は良いけど、それが自分の利益になるような状況はマズい。そういう人間とは同じ社会で過ごしにくい。俺は整合性を取らない部分はあるけど、例えば一人称が統一されていなかったりするのは理論的に統一する必然性が無いからそれを外しているだけで、別に自分の利益になっているわけでは無いし、利益になっているのがあるとすれば指摘されれば取るよ。

追記5:ただ君に悪意があるよと伝えるためにそれをやるのは違うでしょう。それは医者の太っていますねと、いじめっ子の太っていますねが違うのと同じで、何を意図してその言語構造をフローの文脈に置いているかという話で。茂木健一郎氏は、プロフェッショナリズムを自分への当てつけだと思っているのかな、どう考えても現代の人はプロフェッショナリズムで気持ち良くなっていると思うけど、なぜならそれが社会人主義だとか大学人主義だから。俺はそれが邪魔だ(プロフェッショナリズムは違う価値観を持つ人間同士のルールの領域に食い込む)し、現に意味が無いから意味が無いと指摘しているだけ。俺がどう思っていようが関係無く、整合性を取ってくれないと困る、というのはそれが違う価値観を持つ人間同士の共通の目的への工学的な要請だから。投票には意味が無いだとか、貨幣論とか、フィルターが正常に働いているか確認するために査読の履歴を公開すべきだとか、検証を目的にするなら論文と呼ばれている前提を用意して弾き出す形態に限らない(例えばアルゴリズムクイックリファレンスへのエラッタは現に検証だった、そんな例に限らず事実だ)とか、そういうのを自己都合で否定するのは絶対に違う。

追記6:政治からは身を引くと言ったじゃないかという批判もあるだろうね。俺は、俺のことを信じずそういう検証できることだけを信じろと言っているので、整合性は取れている。過去を振り返って取れていない時があっても、正しいのはそちらだろうし、少なくとも今現在の俺はそれで整合性が取れているからそれで良いんじゃないかな。君らが思っているより俺の整合性は取れている。君らは俺のことを信じていない、しかし正しい部分があることも分かっている、ただテクニカルに検証できるかが分からない、今はそういう状況で俺も同じだ。しかし俺は検証できると思っている、なぜなら自分の中でそうだと思う分の根拠は、どんな時も再現できるはずだと思うからだ。根拠が無ければ根拠が無いことが検証されるはずだろう。そういう考え方をするかどうかという話なんだよ。

2019年6月28日 21:43

この追記を付け加えていくスタイルは、面白いけど失敗だね。
文脈の多様さを利用しているから普通の文章より意図を読ませてしまうし、流れ弾が無数に発生して精神衛生に悪い。

次からは文章の練習がてら、またタイトルを付けることにしよう。
もうあまり効率は考えていない、最近は愚痴ばっかりだよ。

追記:追記を加えるのはこれ(この記事)で最後にしようと思う。これからは直接書き加える。数学の研究は、まだ始めて2ヶ月だし、これが1年続いてどこまで行っているかじゃないか。そこがスタート地点という気がする。

後日追記:あと、俺は他人のことを試していると評されることがあるが、俺は誰も試していない。アインシュタインやニュートンとは何かを考えると、結局は理論がアインシュタインやニュートンなのであって、本人は黒人だろうが黄色人種だろうが女だろうが男だろうが関係無い、それこそ今まで会ったことのある人の誰でも良かった、理論さえ作っていればそいつがアインシュタインやニュートンだ。まず俺の理論には正しいものが多く含まれるし、社会だって変えるはずだ。社会を変えたいと言っている人は、その目的のために俺が嫌がっても正しい理論を世に出そうとするのが整合性だろうし、逆に試しているとか俺があなたにお願いして世に出してあげるとか考えている人には、結局は権力を生むので頼むことはできない。俺の性格を問わない人が一人でもいてくれると思っていた。だがいなかった。せめて自分の中での整合性は取ってほしいと思う、これはマトリックスが好きな俺からのプレゼントでもある、全てが終わった後に人間が何をするか、一方で俺はそれをずっと見たかった。

後日追記2:本当にいくらでも方法はあるはずなんだよ。例えばここにこう書き込んだら妙なものがあったと言及しても良いよとか。本当にいつの時代も人間は勝手なことばかり言って、俺がここ数日研究が進んでいなかったのは日雇いの始発から終電までの乗降カウントのバイトをして疲れていたからだよ。26日がそれで27日はもういろいろ駄目で28日には再開したんじゃん。馬鹿野郎どもめ、消えて欲しいと願っている奴ばかりじゃないか。大体、人間が選択をする時は、どちらにしようかなと考えて、半々ぐらいに分かれるものだろう。歴史を勉強して後から振り返って勝ち馬に乗って批判することなら誰でもできるし、卑怯だ。第二次世界大戦にしても、自分がそうなり得たというリアリティーが全く感じられない。イーロンマスクだとか、そうじゃなくてもリアルタイムの負けそうな人を支持して、現に負けて苦しめる人じゃないと歴史を批判する資格なんて無い。そういう支持している人間が歴史上以外に一人でもいるのかよって。100回に99回は失敗するのがチャレンジだろう、何で常に失敗すると予想して余裕な顔をしているような奴が、若気の至りだの、さもフィフティーフィフティーなつもりで上から目線で偉そうにしているのか。日本語学会が駄目だったら俺は高確率で消えるよ、歴史っていうのはどういう時だろうがそれぐらい危ういものだろうよ、俺にゴチャゴチャ言っている奴らは俺のベーシックイングリッシュ理論などが消えると思っているがな、例えば今良しとされている肉食もその歴史的視点から見たらどうなるかな、例えば今でもインドの一部だとかから見たら、他にも投票はどう見えるかな。今現在や過去や未来にある危うさってものが分かってないんだよ、疑う力が無いからだよ。どうして歴史に対して上から批判できるんだよ、そりゃおかしいよ、奇妙な行動だ。歴史を勉強する時だけ人間は批評家になると言っても良いだろうね、自分の駄目さが見えてない、奇妙な行動だということに気付かない。

後日追記3:なんでLSDが禁止されてるんだろう。俺もシャーマニズムがやりたい。シャーマニズム的なものを全否定するなんて無理があるんだよ無理が。これを読んでる奴らは全員ろくでもねえよ。それを否定する奴がいるということが信じられない。他の人間に違うものが見えているなら、どういう思いやり?で幻覚剤を禁止するんだろう、昔の人間は使っていたのに全然分からない。俺の仮説では、人間はやることが無くなったら暇になって生物として面白さや楽しさや美しさを求め、その時感じる空虚さはシャーマニズムで埋めるんだよ。現代ではそれは禁止されていて、その欲求を芸術だとか天才だとかで埋めてるんだ。俺はシャーマンを求めていたが、いつの時代も人間はポンコツなんだ、エゴが強いと思われるかもしれないが、謙虚なんていつの時代にもあるし、その謙虚っていうのは社会のエゴで、従えば社会が大きくなっていくだけなんだよ、例えばアカデミズムみたいに。社会が大きくならない謙虚だけが本当の謙虚だよ、まあ俺が語れる存在じゃないのは確かだがな、その遠慮が社会を作るんだよ。俺の名前を出す必要なんて無いんだぞ、なぜ隣に投票批判を伝えない、そのギリギリの所で自分のロジックを信じれない、それが遠慮なんだ、何が違う?投票は統計的に誤差だと自分の頭で分かるだろ、でもギリギリの所でいや違う、もっと賢い奴はいると踏みとどまるんだよ、そういうのが社会を作ると言っているんだよ、それと同じメカニズムで何か新しいことにも踏み出せない、例えばベーシックイングリッシュの研究にも踏み出せない。そういう現象が自分の中で起きているだろって、でそのたびに新しいことを諦めている。自分の中を観察すれば分かるが、事実だ、それを何とかしたら成功するとは言ってない、そういう現象が起きていると指摘している。貨幣論でも、査読の履歴を公開すべきだという意見にしても、それっぽっちのことでも既存の権力に遠慮して合意できない、そして俺が権力になったら今度は俺に遠慮するのかよ、馬鹿め。

後日追記4:とにかく下の人間は絶対に謙虚になってはいけない。上の人間は知らん。どういう存在が生物の社会にとって都合が良いか考えた方が良い、それに合うように教育されるわけだけど。下の人間が全員謙虚な社会はどう考えても暗い、対して下の人間が全員大臣並に不遜な社会はどう考えても明るい。まあ人間社会はクズ社会だから、現実に下の人間は不遜にならないし、だから上は抑えたほうが良いのかもしれないけどね、人間はクズだから。

後日追記5:あらゆるテキストは、その文脈の中でなければ価値は分からない、という考え方があるわけだよね。そりゃ不遜な考え方かね。別に俺は孔子を支持するわけでは無いが、あれは元々は負け組に支持された思想で、なぜ支持されたかと言えば、孔子は儀式をする奴らの出身で、それまで神に向けられていた礼を人間に向けるようになったからなんだよね、つまり都合が良かった。仏教もそうで、それまでカースト制があったのを、否定したのが都合が良かった。キリスト教にもそういう都合の良さがあったし、イスラム教もキリスト教のローマ国教化から230年で、アラブ世界へのローカライズだったという見方もできるわけだ。その当時のアラブ世界と比較して残酷かどうかを見るべきなのであって、氏族社会で氏族以外は守られなかったのが守られるようになった、という側面もある。当時の視点で考えなければこういうことは分からない。

後後日追記:ジュニア算数オリンピックの幾何学とグラフ以外の問題が終わって、キリが良いんで、近い内に県立図書館で計算機科学について詳しく調べてこようと思っている。俺の中でこの研究はまだ構想段階で、始めた時は研究の形は見えていなかったし、もし既にあってもプログラミングの練習になると思っていた。西内啓さんね、twitterを始めた頃はあなたを喜ばせるために書いていたものだけど、貨幣論について調べてみてほしい。勉強をしたから上手く行くわけじゃない、そういう例はいくらでも見つかるはずだよ。いつの時代にも頭が良いような人はいるわけで、例えばユダヤ教徒なんて聖書を丸暗記してそれを元に本気の議論をすると聞いたことがあるわけだけど、もしそれが本当なら昔のユダヤ教徒達でも現代に連れてきたら良い学校に入っちゃうわけだよね。仏教の経典とかでも量があって議論があるのは同じなわけで、そういうのは昔と今でそんなに変わってるわけじゃないんだよ。